オーストラリア連邦の成立

概要
六つの植民地が一つの国になった。同時に移民を制限する政策も始まる。
場所
-37.81°N 144.96°E · オーストラリア・ビクトリア州
本文
1788年に最初の船団が流刑の囚人を連れてシドニーに着いてから(第一船団のボタニー湾到着)、オーストラリア大陸にはイギリスの植民地が一つずつ生まれていった。19世紀の末には、ニューサウスウェールズ、ヴィクトリア、クイーンズランド、南オーストラリア、西オーストラリア、タスマニアの六つになる。それぞれが自分の議会と政府、自分の関税と軍を持ち、互いに外国のように振る舞っていた。
不便は目に見えていた。植民地の境を越えて品物を運べば、関税がかかる。鉄道は植民地ごとに別々の幅の線路で敷かれ、シドニーとメルボルンを結ぶ旅では、境の町で全員が列車を乗り換えなければならなかった。オーストラリアのゴールドラッシュで人口が急に増え、植民地どうしの行き来が盛んになるほど、ばらばらであることの損は大きくなった。

守りへの不安もあった。太平洋ではドイツとフランスが島々を手に入れ、北では日本が力をつけていた。小さな植民地が一つずつ軍を持っても、大陸を守ることはできない。
1889年、ニューサウスウェールズの首相パークスが、大陸の植民地は一つの政府のもとにまとまるべきだと演説した。1891年と1897年から98年にかけて、各植民地の代表が集まって憲法の案を練った。案は各植民地の住民投票にかけられ、何度かの修正を経て、最後に西オーストラリアが1900年に賛成した。ニュージーランドも話し合いに加わったが、最後は加わらない道を選んだ。

イギリスの議会が憲法を法律として可決し、1901年1月1日、シドニーの公園でオーストラリア連邦の成立が宣言された。初代の首相はバートン。首都をシドニーとメルボルンのどちらにするかで譲らなかったため、両市の間に新しい首都キャンベラを造ることになり、それまでの間、連邦議会はメルボルンで開かれた。戦争も革命も無く、話し合いと住民投票で生まれた国だった。
憲法は、イギリスとアメリカの両方を手本にした。首相と内閣が下院に責任を負うイギリス流の議会政治を採りつつ、各州が同じ数の議員を送る上院を置いて、人口の少ない州の不安に応えた。国の元首はイギリスの君主のままで、その代理として総督が置かれた。1999年には君主制をやめて共和国になるかを問う国民投票が行われたが、否決されている。

一方で、新しい国は誰を国民とするかを、はっきりと線引きした。連邦議会が最初の年に作った法律の一つが、移民制限法である。移民を望む者には、役人が選んだヨーロッパの言葉で50語の書き取りを課すことができた。落としたい相手には、その人が知らない言葉で出せばよい。
中国人をはじめとするアジアの人々は、こうして締め出された。白豪主義と呼ばれる政策の始まりである(白豪主義)。同じ年には、サトウキビ畑で働いていた太平洋の島々の人々を送り返す法律も作られた。

大陸に何万年も前から住んでいた先住民は、憲法の上で、人口を数えるときに数に入れないとされた。1902年には女性が連邦の選挙で投票できるようになったが、先住民の多くはその権利から外された。
先住民を人口に数えないとした条文は、1967年の国民投票で削られた(1967年の国民投票(オーストラリア))。賛成は9割を超え、オーストラリアの国民投票で最も多い賛成票になった。白豪主義は、1970年代の初めまでに取り払われた。

連邦の成立から100年あまりのあいだに、オーストラリアは世界でも有数の移民の国に変わった。それでも、先住民の子どもを家族から引き離した政策(盗まれた世代)や、土地の権利をめぐる裁判(マボ判決)など、1901年に引かれた線の跡は、今も議論の的であり続けている。