メネリク2世
概要
アドワでイタリアを破り、アフリカ分割のなかで独立を守り抜いた。
所属
エチオピア帝国関わったできごと(1)
アドワの戦いAD1896年3月1日 · エチオピア側 · 総指揮本文
1844年8月17日、エチオピア中部のシェワ地方、アンコベルに生まれた。幼名はサーレ・マリアム。シェワ王家の跡取りだった。当時のエチオピアは、皇帝の権威が衰え、各地の有力者が争う「諸侯の時代」(ゼメネ・メサフィント)と呼ばれる分裂期の終わりにあった。古いエチオピア・ソロモン朝の成立の流れをくむ皇帝はいたが、名ばかりだった。

この分裂をまとめ直したのが、皇帝テオドロス2世である。1855年、テオドロスはシェワを攻め、11歳の少年を連れ去った。少年はテオドロスの山城マグダラで10年ほどを過ごす。人質ではあったが、皇帝は彼を厚遇し、自分の娘と結婚させてもいる。宮廷で、国をまとめる力と、その危うさを間近に見たことになる。1865年、メネリクは山城を抜け出してシェワへ戻り、王を名乗った。テオドロスは1868年、イギリスの遠征軍に追い詰められてマグダラで自ら命を絶つ。
その後、北部ティグレのヨハンネス4世が皇帝になった。メネリクはしばらく帝位をうかがったが、1878年にヨハンネスに服属し、シェワの王として認められる。その間に力を注いだのが、南への拡大と武器の買い入れだった。南部や西部のオロモ、グラゲ、カッファなどの地域を次々に征服し、1887年には交易都市ハラールを取った。南の土地から上がる象牙や金、コーヒーなどの富で、フランス、ロシア、そしてイタリアから大量の銃を買った。この南方征服は、征服された側の人々にとっては過酷なもので、いまもエチオピアの民族問題の一つの根になっている。

1886年頃、妻タイトゥの勧めで、温泉の湧く高原に新しい都を置いた。タイトゥが名付けたとされる名がアディスアベバ、「新しい花」である。1889年、ヨハンネスがスーダンのマフディー派との戦いで戦死すると、メネリクが皇帝に即位した。
同じ年、メネリクはイタリアとウッチャリ条約を結んだ。イタリアは紅海沿岸のエリトリアを手に入れたばかりで、内陸のエチオピアにも手を伸ばそうとしていた。問題は第17条だった。アムハラ語の条文では、エチオピアは外国との交渉にイタリアを「使うことができる」となっていた。イタリア語の条文では「使わなければならない」になっていた。イタリアはこれを根拠に、エチオピアを自国の保護国だとヨーロッパ諸国に通告した。アフリカがヨーロッパの国々に切り分けられていく時代である(アフリカ分割)。
メネリクは抗議し、1893年に条約の破棄を通告した。イタリアは軍を進め、戦争になる。メネリクは、それまで争ってきた北部の有力者たちにも呼びかけ、10万人前後の兵を集めた。1896年3月1日、ティグレのアドワで、バラティエリ将軍の率いるイタリア軍とその現地兵、およそ1万7千から2万人とぶつかった(アドワの戦い)。イタリア軍は険しい山地で部隊がばらばらになり、各個に包囲された。半日ほどの戦いで、イタリア側は数千人の死者と、3千人ほどの捕虜を出した。

アフリカの国が、近代的な軍を持つヨーロッパの国を正面から破った。イタリアでは首相が辞任に追い込まれた。同じ年の10月、アディスアベバ条約でイタリアはエチオピアの完全な独立を認めた。イギリスやフランスも使節を送って国境を取り決め、エチオピアは列強に囲まれながら独立国として生き残った。勝因の一つは、メネリクが長年かけて集めた銃と、自前の大軍を動かせるまでにまとめ上げた国内の結束にあった。
勝利の後、メネリクは国の近代化を進めた。アディスアベバには電信と電話が引かれ、フランスの会社によってジブチの港へ向かう鉄道の建設が始まった。最初の近代的な学校、病院、銀行、郵便が作られ、通貨も整えた。外国人の技術者や助言者を招きながら、彼らに国を委ねることはしなかった。

1906年頃から、たびたび脳卒中に倒れた。やがて言葉も満足に話せなくなり、孫のイヤスが後継者に指名される。実権は側近やタイトゥの手を行き来し、宮廷は混乱した。1913年12月12日に亡くなったが、その死はしばらく公にされなかった。69歳だった。
アドワの勝利は、植民地支配を受けたアフリカの人々や、アメリカの黒人にとって、長く誇りの象徴になった。その勝利の日は、いまもエチオピアの祝日である。一方で、イタリアはこの敗北を忘れなかった。40年後、ムッソリーニの軍が毒ガスを使ってエチオピアに攻め込み(イタリアのエチオピア侵攻)、メネリクの縁続きのハイレ・セラシエ1世が亡命を強いられることになる。