セリンガパタムの陥落
概要
マイソールのティプー・スルタンは4回イギリスと戦った。フランスと組み、ナポレオンがエジプトから手紙を書いた。ロケット弾でイギリス兵を驚かせた(コングリーヴがそれを真似た)。1799年、ウェルズリー兄弟が囲み、ティプーは城壁の門で戦って死んだ。「ティプーの虎」(イギリス兵を虎が食う仕掛けのオルガン)はロンドンの博物館にある。
場所
12.42°N 76.69°E · インド・カルナータカ州
関わった人(1)
ティプー・スルタンAD1751年11月20日–AD1799年5月4日 · 門で死んだ本文
18世紀の半ば、ムガル帝国の力が衰えたインドでは、各地の王国とヨーロッパの商社が争っていた。1757年のプラッシーの戦いでベンガルを手にしたイギリス東インド会社は、南インドでも勢力を伸ばそうとしていた。その前に立ちはだかったのが、南インドの内陸の王国マイソールである。マイソールはヒンドゥーの王家ワディヤールが治める国だったが、1761年ごろ、ムスリムの軍人ハイダル・アリーが実権を握った。ハイダルはフランス人の将校を雇って軍を近代化し、周りの国々を併せて、南インド最強の国にした。
マイソールと東インド会社は、30年あまりのあいだに四度戦った。1767年からの第一次の戦争では、ハイダルの騎兵が会社の拠点マドラスの間近まで迫り、会社に不利な和平を結ばせた。1780年からの第二次の戦争では、ハイダルの息子ティプー(ティプー・スルタン)が、ポリルールで会社の部隊を壊滅させた。インドの軍がイギリスの軍を打ち破った、最も大きな勝利の一つである。戦争のさなかの1782年にハイダルが死に、ティプーが後を継いで、1784年に和平を結んだ。

ティプーは「マイソールの虎」と呼ばれた。虎の縞の軍服を兵に着せ、虎の頭の飾りのついた玉座に座り、武器や貨幣に虎の模様を刻んだ。父のロケット部隊を受け継ぎ、鉄の筒に火薬を詰めて竹の棒をつけたロケットを数千人の兵に扱わせた。鉄の筒を使うことで、それまでのロケットよりも遠くへ、強く飛ばせた。国の中では、絹の生産を奨励し、灌漑の堰を造り、新しい暦と度量衡と貨幣を定め、役所の仕組みを改めた。フランス革命に共感を示し、1797年には都セリンガパタムにフランス人のジャコバン・クラブが作られ、ティプーは「市民ティプー」と呼ばれたと伝えられる。イギリスを追い出すため、フランスやオスマン帝国、アフガニスタンにも使節を送った。
1790年からの第三次の戦争では、会社はハイデラバードのニザームやマラーターと手を組んでマイソールを攻めた。率いたのは総督コーンウォリスで、かつてアメリカ独立戦争のヨークタウンの戦いで降伏した将軍である。1792年、コーンウォリスはセリンガパタムを囲み、ティプーは領土の半分と多額の賠償を差し出し、二人の息子を人質に出して和を結んだ。

1798年、ナポレオンのエジプト遠征が始まった。インドへの道をうかがうフランスの動きに、会社は神経をとがらせた。ナポレオンはエジプトからティプーに手紙を書き、イギリスの鉄の軛から解放するために来たと伝えたが、手紙はイギリス側に押さえられた。新しい総督リチャード・ウェルズリーは、ティプーとフランスの結びつきを口実に、マイソールを滅ぼすことを決めた。
1799年、第四次の戦争が始まった。ハリス将軍の率いる会社の軍とニザームの軍、合わせて数万の兵が、マイソールに攻め込んだ。総督の弟で、のちにワーテルローでナポレオンを破りウェリントン公となるアーサー・ウェルズリーも、部隊を率いていた。4月、軍はカーヴェリ川の中州に築かれた要塞都市セリンガパタムを囲んだ。砲撃で城壁に破れ目ができると、5月4日の昼過ぎ、川の水が最も浅くなる時刻を選んで、兵たちは破れ目へ突撃した。先頭に立ったベアード将軍は、かつてティプーの捕虜として何年も鎖につながれていた人物だった。

ティプーは自ら城壁の上で戦い、傷を負って北の水門のあたりで倒れた。夕方、門の下に折り重なる死体の中から見つかった遺体には、まだ温もりがあったという。宝石のついた剣帯を奪おうとした兵に撃たれたとも伝えられる。40代の終わりだった。都は兵士たちに略奪され、宮殿の財宝は戦利品として分けられた。
宮殿から運び出された品の一つに、「ティプーの虎」と呼ばれる木彫りの仕掛けがある。等身大の虎がイギリスの兵士に襲いかかっている姿で、取っ手を回すと、中のふいごとパイプが虎のうなり声と兵士の悲鳴をまねた音を出す。ロンドンに運ばれ、いまはヴィクトリア・アンド・アルバート博物館にある。

イギリスはマイソールの領土を分け、残りに幼いワディヤールの王子を据えて、会社に従う藩王国とした。南インドで会社に正面から挑める国は、これで無くなった。ティプーのロケットはイギリスに持ち帰られて研究され、ウィリアム・コングリーヴがこれをもとに作ったロケットは、ナポレオン戦争や米英戦争で使われた。1814年、ボルティモアの砦への砲撃を見た詩人が書いたアメリカ国歌の歌詞に、ロケットの赤い炎が出てくるのは、このロケットである。
ティプーの評価は、いまもインドの中で割れている。イギリスの支配に最後まで抗った英雄として称える人々がいる一方で、征服した土地でヒンドゥー教徒やキリスト教徒を力ずくで改宗させ、寺院を壊した暴君だと非難する人々もいる。どちらの側にも根拠となる史料があり、カルナータカ州でティプーの生誕を祝う行事は、政権が代わるたびに始められたり取りやめられたりしてきた。