奥州合戦

概要
義経を匿った藤原泰衡が、頼朝に迫られて義経を殺し、それでも頼朝は大軍(『吾妻鏡』は28万と書く)で攻めた。阿津賀志山。泰衡は逃げて家臣に殺された。100年の平泉が終わり、頼朝は東国を全部持った。翌年、京へ上った。
場所
38.99°N 141.11°E · 岩手県
関わった人(1)
源頼朝AD1147年–AD1199年 · 攻めた本文
1189年、源頼朝は大軍を率いて奥州へ攻め込み、百年にわたって東北を治めた奥州藤原氏を滅ぼした。平家を倒してから4年、頼朝に従わない武士の勢力は、これで日本から消えた。
奥州藤原氏は、前九年の役と後三年の役という二つの戦乱を経て東北の覇者となった藤原清衡に始まる。清衡、基衡、秀衡の三代は、奥州で採れる金と、名馬と、矢羽に使う鷲の羽などの産物で富を築き、平泉に中尊寺や毛越寺、無量光院を建てて、京に劣らぬ仏教の都を造り上げた。中尊寺の金色堂は1124年に建てられ、いまも三代の遺体が納められている。

壇ノ浦の戦いで平家が滅んだあと、頼朝と弟の源義経は仲違いし、追われた義経は少年時代を過ごした平泉の秀衡を頼った。秀衡は義経をかくまったが、1187年10月に病で亡くなる。義経を大将にして頼朝に備えよ、というのが秀衡の遺言だったと伝えられる。
跡を継いだ泰衡は、頼朝と朝廷から義経を差し出せと繰り返し迫られた。1189年閏4月30日、泰衡は兵を送って衣川の義経の館を襲わせた。義経は妻と幼い娘を殺して自害した。31歳だった。首は酒に浸されて鎌倉へ送られ、6月、鎌倉の西の腰越で首実検が行われた。泰衡は、義経を討てば頼朝に許されると考えていたのだろう。義経をかばおうとした弟の忠衡も、このころ泰衡に殺されている。

だが頼朝の狙いは、初めから奥州そのものにあった。頼朝は、泰衡が長く義経をかくまった罪は消えないとして、朝廷に泰衡追討の命令を求めた。後白河法皇は、すでに義経を討った泰衡を攻める理由はないとして許さなかった。頼朝は、戦の場では将軍の命令が天子の命令に優先するという家臣の進言を容れ、命令を待たずに出陣した。7月19日、頼朝は自ら大軍を率いて鎌倉を発った。軍は、頼朝の本隊が奥州への本道を、ほかの二軍が東の海沿いと日本海側を進んだ。鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』は総勢を28万4000騎と記すが、これはそのまま信じられない誇張とされる。
藤原方は、いまの福島県北部の阿津賀志山に、二重の堀と土塁を数キロにわたって築いて待ち受けた。泰衡の異母兄国衡が守ったこの防塁を、8月8日から鎌倉方が攻め、畠山重忠らの奮戦と、山の裏から回り込んだ別働隊によって、3日ほどで破った。国衡は討たれた。これが合戦の山場で、藤原方の抵抗はその後ほとんど続かなかった。

泰衡は平泉の館に火を放って北へ逃れた。8月22日、頼朝は焼け跡の平泉に入った。泰衡は助命を願う手紙を頼朝に送ったが聞き入れられず、9月3日、出羽との境に近い比内で、頼みとした家臣の河田次郎に殺された。河田が首を届けると、頼朝は、代々の主人を裏切った罪は重いとして河田を斬った。泰衡の首は、かつて先祖の源頼義が前九年の役で安倍貞任の首をさらしたときの例にならい、釘で打ち付けてさらされた。頼朝はこの戦いを、源氏が東国を従えた先祖の物語の完成として演出したのである。
頼朝は御家人の葛西清重を奥州の治安を預かる役に任じ、東北の土地を御家人たちに分け与えた。藤原氏の旧臣による反乱もすぐに鎮められた。全国の武士が頼朝のもとに集まって戦ったこの合戦は、頼朝が武家の棟梁として全国の武士を動員できることを示した。翌1190年、頼朝は初めて京に上り、法皇と会見して権大納言と右近衛大将に任じられた。1192年には征夷大将軍となる(鎌倉幕府の成立)。

ちょうど500年後の1689年、松尾芭蕉は平泉を訪れ、義経の最期の地とされる高館に立って「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだ。金色堂に納められた首桶の中の首は、のちの調査で泰衡のものと考えられるようになった。1950年の学術調査のとき、その桶から蓮の種が見つかり、半世紀後に花を咲かせた。800年前の種から咲いた花は「中尊寺ハス」と呼ばれている。