グルンヴァルトの戦い

概要
ポーランドとリトアニアの連合軍が、ドイツ騎士団を破った。騎士団の総長が戦死する。バルト海への布教と征服を続けてきた騎士団が、以後衰える。
場所
53.48°N 20.10°E · ポーランド
関わった人(2)
ヨガイラ(ヴワディスワフ2世)AD1352年頃–AD1434年6月1日 · 総指揮ヴィタウタスAD1350年頃–AD1430年10月27日 · リトアニア軍本文
ドイツ騎士団は、もとは十字軍のさなかにパレスチナで生まれた修道騎士の団だった。13世紀の初め、ポーランドの公に招かれて、バルト海の南岸に移ってくる。相手は、キリスト教を受け入れていない異教のプルーセン人だった。騎士団は半世紀あまりの戦いでプルーセン人を征服し、ドイツから農民や町人を呼び寄せて、城と町を築き、修道騎士が治める国を作った。のちの「プロイセン」の名は、征服された民の名から来ている。
その東に、ヨーロッパ最後の大きな異教の国、リトアニアがあった(リトアニア大公国)。騎士団は毎年のように攻め込み、それを「異教徒への十字軍」として西ヨーロッパの騎士たちに宣伝した。フランスやイングランドの貴族たちが、名誉と冒険を求めて参加しに来た。
1385年、状況が変わる。リトアニア大公ヨガイラ(ヴワディスワフ2世)は、ポーランドの若い女王ヤドヴィガと結婚してポーランド王となることを約束し、自らとリトアニアのキリスト教への改宗を誓った(クレヴォの合同)。翌年、ヨガイラは洗礼を受けてヴワディスワフ2世としてポーランド王になり、リトアニアの民の改宗が始まった。異教徒と戦うという騎士団の存在の理由が、これで消えた。

それでも騎士団は止まらなかった。改宗は見せかけだと言い立て、両国にはさまれたジェマイティアの土地をめぐって争い続けた。リトアニアを実際に治めていたのは、ヨガイラのいとこヴィタウタスだった。1409年、騎士団の支配に対してジェマイティアの人びとが反乱を起こし、ヴィタウタスがそれを助けると、騎士団の総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、ポーランドに宣戦した。
1410年の夏、ポーランドとリトアニアの軍は合流し、ヴィスワ川に船を並べた橋を渡って、騎士団の本拠マリエンブルクへ向かった。軍には、ポーランドとリトアニアの兵のほか、ルーシの諸公の兵、モンゴル系のタタールの騎兵、チェコやモラヴィアの傭兵が加わっていた。数は連合軍が3万前後、騎士団が2万あまりと見られるが、史料によって大きく違う。

7月15日、グルンヴァルトとタンネンベルクの二つの村のあいだの野で、両軍は向かい合った。暑い日だった。ヨガイラは陣の後ろでミサを聞き、なかなか戦いを始めなかった。じれた騎士団の総長は、使者に2本の抜き身の剣を持たせて送り、臆病でないなら戦えと挑発したと、ポーランドの年代記は書く。この2本の剣は、のちにポーランド王の戴冠の宝物になった。
戦いは、右翼のリトアニア軍とタタール軍が騎士団の攻撃を受けて退くところから動いた。騎士団の兵の一部は勝ったと思って追撃に散った。この退却が、本当に崩れたのか、草原の民の戦い方にならった見せかけの退却だったのかは、いまも議論がある。その間、左翼のポーランド軍は騎士団の主力と激しく戦い続けた。王の旗が一時倒れかけたという。やがてリトアニア軍が戦場に戻り、ヨガイラが後ろに残していた予備の兵を投入すると、騎士団は包囲された。

総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、戦場で討たれた。騎士団の最高幹部の多くも倒れ、戦場に出た修道騎士の大半が戦死したとされる。ヨーロッパ中世で最大級の騎士の戦いの一つだった。チェコの傭兵の中に、のちにフス派の戦争で名を上げる将軍ヤン・ジシュカがいて、ここで片目を失ったという言い伝えもあるが、確かめられてはいない。
勝った連合軍は、すぐにはマリエンブルクへ向かわなかった。ようやく城を囲んだときには、騎士ハインリヒ・フォン・プラウエンが守りを固めており、2か月の包囲でも落ちなかった。翌1411年の和約で、騎士団が差し出したのは、ジェマイティアなどわずかな土地と、多額の身代金だけだった。

騎士団は滅びなかった。だが、二度と攻める側にはならなかった。その支払いのために税を上げると、騎士団の支配する町々と貴族が反発し、やがてポーランド王のもとに付く。15世紀の半ばの戦争で、騎士団は西プロイセンをポーランドに奪われ、残った東プロイセンも王の宗主権を認めた。1525年、総長アルブレヒトはルター派に改宗して騎士団の国をやめ、自分の世襲のプロイセン公国にする。ポーランドとリトアニアは、この後ヨーロッパ有数の大国へと育っていく(ポーランド・リトアニア共和国)。
グルンヴァルトは、その後の民族の記憶の中で大きくなった。ポーランドでは、19世紀に国が分割されて失われていた時代、画家マテイコが巨大な戦いの絵を描き、作家シェンキェヴィチが小説『十字軍の騎士たち』を書いて、ドイツの圧迫に抗う象徴になった。リトアニアでもヴィタウタスの勝利として誇られる。第一次世界大戦が始まった1914年の8月、ドイツ軍は東プロイセンの近くの戦場でロシア軍を破ると、それを「タンネンベルクの戦い」と名づけ、500年前の敗北をそそいだと宣伝した。