できごと

パルティアのセレウキア占領

Parthians take Seleucia
BC141年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民コイサンサハラの牧畜遊牧民前漢フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民スキタイ西アフリカの穀作農民匈奴テュルク系の諸部族月氏タイ系の人びとパルティアアラブ系の人びとバクトリアプトレマイオス朝ローマガリア諸部族小国群シャンシュン王国ノルマン人メロエヌミディアPlain-Pottery cultureセレウコス朝シュファクスの王国(マサエシュリ)Brushed Pottery cultureカタバーンBell-shaped burials cultureMaanナバテア王国ペルガモン王国Milograd culture鉄器時代の首長制社会ハドラマウトEastern Masurian cultureポントス王国ボスポロス王国ブレンミュエスガラの王国(マッシュリ)サバア王国Pomeranian cultureシンハラBC141年セレウキア
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC141年の版図を描いています(42勢力)。

概要

ミトリダテス1世がメディアからメソポタミアへ下り、セレウコス朝の都を取った。のちの王たちは「王の中の王」を名乗る。ティグリスの対岸に冬の陣を置いた。クテシフォン。ギリシアの街とイランの遊牧民の陣が向かい合って、400年。ローマの東は、そこで止まった。

場所

セレウキア
33.09°N 44.52°E · イラク

関わった人(1)

ミトリダテス1世(パルティア)BC195年–BC132年 · 王

本文

アレクサンドロスの死後、その東の領土の大半を受け継いだのはセレウコス1世の建てたセレウコス朝だった。だが帝国はあまりに広く、東の果てから綻びていった。紀元前3世紀の半ば、カスピ海の南東の草原にいたイラン系の遊牧民パルニ族が、首長アルサケスに率いられてセレウコス朝の州パルティアを奪い、そこに国を建てた。これがパルティア(パルティア)で、王家の名をとってアルサケス朝とも呼ばれる。紀元前209年にはアンティオコス3世(大王)が東方に遠征して、パルティアの王を一時臣従させている。

パルティアを大国に押し上げたのが、紀元前171年ごろに即位したミトリダテス1世(ミトリダテス1世(パルティア))である。彼は東では、ギリシア人の国バクトリアの西の領土を奪い、西では紀元前148年ごろまでにイラン高原の西のメディアを手に入れ、古都エクバタナを押さえた。そして紀元前141年、ザグロスの山を下ってメソポタミアへ入り、セレウコス朝の東の都セレウキアを取った。

フリュギア帽をかぶったパルティア人(右)。ローマによって捕虜として鎖に繋がれている様子が描かれている(左)。セプティミウス・セウェルスの凱旋門(203年)。
フリュギア帽をかぶったパルティア人(右)。ローマによって捕虜として鎖に繋がれている様子が描かれている(左)。セプティミウス・セウェルスの凱旋門(203年)。Wikimedia Commons Personal photograph 2006. Own work · Public domain

セレウキアは、セレウコス1世がティグリス川のほとりに建てた町で、古いバビロンに代わるメソポタミアの中心になっていた。ローマの博物学者プリニウスは、のちにその人口を60万と伝えている。バビロンの神官たちが残した天文日誌は、この年のうちに、日付を「アルサケス王」の名で書き始めている。ミトリダテスはバビロニアの王として認められたのである。

セレウコス朝は黙っていなかった。紀元前139年ごろ、王デメトリオス2世がメソポタミアを取り戻そうと攻め込んだが、敗れて捕えられた。ミトリダテスは捕虜の王を殺さず、イランの北のヒュルカニアに住まわせ、自分の娘ロドグネを妻として与えた。デメトリオスは10年ほどパルティアに留め置かれた。セレウコス朝の王を手元に置いておくことは、相手の国を揺さぶる手札にもなった。ミトリダテスは紀元前132年ごろに死んだ。

エリュマイス(現・イラン、フーゼスターン州)のシャミにある聖域から発見されたパルティアの貴族の銅像(イラン国立博物館所蔵)
エリュマイス(現・イラン、フーゼスターン州)のシャミにある聖域から発見されたパルティアの貴族の銅像(イラン国立博物館所蔵)Wikimedia Commons Arm_less_man.JPG : Original uploader was Aytakin at en.wikipedia derivative work: Julia \ talk · Public domain

ミトリダテスの硬貨には、「ギリシア人を愛する者」という意味のギリシア語の称号が刻まれている。新しく支配した土地には、アレクサンドロスとセレウコス朝の時代に建てられたギリシア人の町が数多くあった。パルティアの王たちはそれを壊さず、セレウキアのような町にはかなりの自治を許し、ギリシア語を硬貨と行政に使い続けた。そのいっぽうで、のちの王たちは古いアケメネス朝の「王の中の王」という称号を名乗り、イランの君主であることも示した。

ミトリダテスの死後、セレウコス朝は最後の大反撃に出る。紀元前130年、アンティオコス7世が大軍を率いて東へ進み、いったんはメソポタミアとメディアを取り戻したが、翌年の戦いで敗れて死んだ。これ以後、セレウコス朝はシリアの一角に縮み、メソポタミアは300年以上にわたってパルティアの土地になった。

ミトラダトケルタ(現・トルクメニスタン、ニサ)で発見された兵士の像の頭部(前2世紀)
ミトラダトケルタ(現・トルクメニスタン、ニサ)で発見された兵士の像の頭部(前2世紀)Wikimedia Commons Zereshk at English Wikipedia · CC BY 2.5

パルティアの王たちは、セレウキアのギリシア人の町の中には住まなかった。ティグリス川の対岸に陣営を構え、そこに冬の宮廷を置いた。それがやがて都クテシフォンになる。ギリシアの都市と、イランの王の宮廷が、川をはさんで向かい合ったのである。

東から西へ進む力は、やがて西から東へ進むローマとぶつかった。紀元前53年、ローマの将軍クラッススが大軍でメソポタミアに攻め込み、カルラエの戦いでパルティアの騎兵に包囲されて全滅した。馬で退くふりをしながら振り返って矢を射る「パルティアの射法」は、ローマ人に深い印象を残した。ユーフラテス川がおおむね二つの大国の境になり、ローマの東への膨張はここで止まった。のちにトラヤヌスは116年にクテシフォンを落とし、ペルシア湾まで進んだが、領土は長くは保てなかった。165年にはローマ軍がセレウキアを焼き、町はそれから衰えた。

カルラエの戦いに関わる図版:Battle of Carrhae (Caesarː A History Of The Art Of War Among The Romans Down To The End, vol. II, 1892)
カルラエの戦いWikimedia Commons Theodore Ayrault Dodge · Public domain

224年、パルティアはペルシアの地方の王家から興ったササン朝に倒された(ササン朝の成立)。アルサケスの国は、およそ470年続いたことになる。ササン朝もクテシフォンを都にし、その巨大なアーチの宮殿の跡がいまも残るが、パルティア時代の建物はほとんど残っていない。パルティアの歴史は、ギリシアやローマの書物と、硬貨と、バビロンの粘土板から組み立てるほかない。

遠い中国も、この国を知っていた。紀元前2世紀の後半、漢の武帝の使者として西域に赴いた張騫(張騫の西域派遣)は、大月氏の西に「安息」という大国があり、市場が開かれ、王の顔を刻んだ銀貨を使っていると報告した。「安息」は王家の名アルサケスを写した言葉だとされる。セレウキアの跡は、20世紀にアメリカのミシガン大学とイタリアの調査隊が掘り、ティグリス川のほとりに碁盤の目の町の跡を確かめている。

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