できごと

プラッシーの戦い

Battle of Plassey
AD1757年6月23日
重要度 5
プラッシーの戦いに関わる図版:Lord Clive meeting with Mir Jafar after the Battle of Plassey
Lord Clive meeting with Mir Jafar after the Battle of Plassey Wikimedia Commons Francis Hayman · Public domain

概要

東インド会社がベンガルを手に入れた。会社が領土を統治するという異様な形で、インド支配が始まる。

場所

プラッシー位置は特定されていない(誤差 ±8km)
23.80°N 88.25°E · インド・西ベンガル州

本文

18世紀の初め、インドを治めていたムガル帝国は、アウラングゼーブが1707年に死ぬと急速に弱まった。各地の太守は皇帝に名目上は従いながら、実際には独立した君主のようにふるまった。その一つが、ガンジス川の下流のベンガルである。綿織物や絹、硝石、米を産する豊かな土地で、ヨーロッパの商人たちが集まっていた。

その中心にいたのが、イギリス東インド会社だった。1600年に女王から特許を得た、株主が出資する貿易の会社である。会社はベンガルのカルカッタに商館と砦を築き、太守の許しを得て関税を免除されて商売をしていた。同じころ、インド南部では、イギリスの会社とフランスの東インド会社が、現地の君主どうしの争いに介入しながら勢力を争っていた。この対立は、ヨーロッパで1756年に始まる七年戦争とも結びついていた。

シラージュ・ウッダウラ
シラージュ・ウッダウラWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1756年、20代の若さでベンガルの太守になったシラージュ・ウッダウラは、イギリスの会社が許しなくカルカッタの砦を強化したことや、関税の特権を乱用していることに怒り、カルカッタを攻め落とした。捕らえられたイギリス人が狭い牢に一晩閉じ込められ、多くが窒息して死んだとされる。「カルカッタの黒い穴」と呼ばれ、イギリスで太守の残虐さの象徴として語られたが、生き残った者が伝えた死者の数は誇張されているとする見方が強い。

マドラスにいたクライヴは、海軍の艦隊とともにベンガルへ向かい、1757年の初めにカルカッタを取り戻した。続いて、近くにあったフランスの拠点も落とした。クライヴはもともと会社の書記として雇われた若者だったが、南インドでの戦いで軍人としての才能を示していた。

ロバート・クライヴ
ロバート・クライヴWikimedia Commons Nathaniel Dance, (later Sir Nathaniel Dance-Holland, Bt) (died 1811) · Public domain

クライヴは、太守の宮廷に不満を抱く者たちに目をつけた。太守の軍の司令官で、太守の一族でもあるミール・ジャアファル、そしてベンガルの財政を握る大銀行家のジャガト・セート家である。クライヴは、太守を倒したらミール・ジャアファルを新しい太守にするという密約を結んだ。この交渉の過程で、クライヴは仲介役の商人をだますために、偽の条約書を作り、そこに提督の署名をまねて書き入れさせたとされる。

1757年6月23日、両軍はカルカッタの北、プラッシーの村のマンゴー林の近くで向き合った。クライヴの軍は、ヨーロッパ人の兵とインド人の傭兵(シパーヒー)を合わせて約3000。太守の軍は5万前後とされ、フランス人の砲兵も加わっていた。兵力の差は十数倍だった。

イギリス側の戦闘計画書
イギリス側の戦闘計画書Wikimedia Commons Public domain

昼ごろ、激しい雨が降った。イギリス側は火薬に覆いをかけて守ったが、太守側の火薬は濡れて使えなくなったとされる。太守に忠実だった将軍ミール・マダンが砲弾に倒れると、太守は動揺した。そして戦場の一角を占めていたミール・ジャアファルの部隊は、最後まで動かなかった。太守は逃げ出し、軍は崩れた。イギリス側の死者は20人あまりだったと伝えられる。戦いというより、寝返りが決めた結果だった。逃げたシラージュ・ウッダウラは捕らえられ、ミール・ジャアファルの息子の手で殺された。

ミール・ジャアファルは太守になったが、会社の後ろ盾なしには何もできなかった。会社とその社員は、謝礼として巨額の金を受け取った。クライヴ個人が受け取った金品だけで、イギリスの大地主に並ぶ財産になった。後に議会で追及されたとき、クライヴは、あのとき自分が取らずにおいたものの多さを思えば、自分の節度に驚くと答えたと伝えられる。

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Wikimedia Commons W. H. Allen and Co. · Public domain

本当の転換は、その数年後に来た。1764年、会社の軍はブクサールの戦いで、ベンガルの太守とムガル皇帝の連合軍を破った。翌1765年、皇帝は会社にベンガルなどの徴税権を与えた。一つの商業の会社が、数千万人が住む土地から税を取り立て、その収入で軍を雇い、その軍で領土を広げる。株主に配当を出す組織が、国のように統治するという異様な形が始まった。

その代償を払ったのはベンガルの人々だった。1770年、ベンガルは大飢饉に見舞われ、数百万の人が死んだとされる。人口の3分の1が失われたとする当時の推計もある。会社は飢饉のあいだも税の取り立てを緩めなかったと批判された。アダム・スミスは『国富論』で、商人の会社が主権者になることのおかしさを厳しく批判している。

『国富論』に関わる図版:Wealth of Nations
『国富論』Wikimedia Commons Gerhard Streminger · Public domain

クライヴ自身は、インドから戻った後、富を得た「ネイボッブ(インド成金)」の代表として非難の的になった。議会の追及を受けた翌年の1774年に死んだ。自殺だったと考えられている。後任の総督ヘースティングズも、帰国後に議会で弾劾され、長い裁判にかけられた。

イギリス議会は少しずつ会社の統治に口を出すようになり、総督を置き、監督の仕組みを作った。それでも会社による支配は100年続いた。1857年のインド大反乱を経て、ようやくイギリス政府が会社からインドの統治を引き取る。プラッシーのマンゴー林で始まったものは、そこまで続いたのである。

出典(1)

ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之 訳) 『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』第16章 拡大するパイという資本主義のマジック

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