できごと

スタンリー、リヴィングストンに会う

Stanley finds Livingstone
AD1871年11月10日
重要度 4
大英帝国オスマン帝国マラーター同盟ポルトガル帝国フラニ帝国(ソコト)Nejdエチオピア帝国KaartaLoziソマリアモシ諸王国ポルトガル領東アフリカルワンダブルンジZanzibarアシャンティ王国ブニョロ王国Kazembeメリナ王国(拡大期)ズールー王国カネム=ボルヌアシャンティ王国ズールー王国ブガンダ王国NkoreオマーンイエメンアンゴラAD1871年11月10日ウジジ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1871年11月10日の版図を描いています(28勢力)。

概要

新聞社の金で、消息の絶えた宣教師を探して8か月。タンガニーカ湖の岸の村で。「リヴィングストン博士ですね」。言ったかどうか、彼の日記のその日の頁は破られている。リヴィングストンは帰らず、2年後に死んだ。スタンリーはコンゴを下り、レオポルドに売った。

場所

ウジジ
-4.91°N 29.68°E · タンザニア

関わった人(2)

ヘンリー・モートン・スタンリーAD1841年1月28日–AD1904年5月10日 · 探したデイヴィッド・リヴィングストンAD1813年3月19日–AD1873年5月1日 · 見つかった

本文

1866年、スコットランド出身の宣教師で探検家のデイヴィッド・リヴィングストンは、三度目のアフリカの旅に出た。ナイルの源を確かめ、あわせて東アフリカの奴隷の取引を世に知らせるためだった。だが内陸へ入ってからは、ほとんど便りが届かなくなった。荷担ぎに逃げられ、物資を奪われ、病に倒れながら、彼はタンガニーカ湖の西のコンゴ川の上流をさまよっていた。イギリスでは、死んだのではないかという噂が流れた。

ニューヨーク・ヘラルド紙の経営者ジェームズ・ゴードン・ベネット・ジュニアは、これを特ダネの種と見た。1869年10月、パリのホテルに記者のヘンリー・モートン・スタンリーを呼び、リヴィングストンを探してこい、金はいくら使ってもいい、と命じた、とスタンリーは書いている。スタンリーは28歳。ウェールズの貧しい家に私生児として生まれ、救貧院で育ち、船でアメリカへ渡って名を変え、南北戦争では両方の側で戦ったことのある男だった。ベネットは先にスエズ運河の開通などを取材させたので、スタンリーがアフリカの東岸のザンジバル(ザンジバルの丁子と奴隷市場)に着いたのは1871年1月だった。

ヘンリー・モートン・スタンリー
ヘンリー・モートン・スタンリーWikimedia Commons Creator:J. Russel & Sons · Public domain

1871年3月、スタンリーは200人近い荷担ぎと護衛を雇い、交易に使う布やビーズや真鍮の針金を山と積んで、大陸の海岸から内陸へ向かった。道は、象牙と奴隷を運ぶ隊商の道である。マラリアに何度も倒れ、荷担ぎが逃げ、隊商の中継地タボラの近くでは、ニャムウェジの首長ミランボとアラブ人の商人たちの戦争に巻き込まれて足止めされた。

1871年11月10日、スタンリーはタンガニーカ湖の東岸の町ウジジに着いた(リヴィングストンの日誌から計算すると、それより少し前だったともいわれる)。隊の先頭には星条旗を掲げさせ、銃を撃って到着を知らせた。人垣の中に、灰色のひげで、色あせた帽子をかぶった白人が立っていた。スタンリーは帽子を取って歩み寄り、「リヴィングストン博士ですね」と言った。本当は駆け寄って抱きつきたかったが、居並ぶアラブ人の前で取り乱した姿を見せたくなかった、とのちに書いている。

『Comment j’ai retrouvé Livingstone』の挿絵に描かれた、リヴィングストンと出会うスタンリー一行
『Comment j’ai retrouvé Livingstone』の挿絵に描かれた、リヴィングストンと出会うスタンリー一行Wikimedia Commons Public domain

この一言は世界中で有名になったが、本当にそう言ったのかは分からない。スタンリーの日記は、この出会いの場面の頁が破り取られている。言葉が最初に現れるのは、のちのヘラルド紙の記事と、彼の本の中である。リヴィングストンの側の記録には、この言葉は出てこない。

リヴィングストンは、そのとき病み衰え、物資も尽きかけていた。数か月前には、コンゴ川上流の市場の町ニャングウェで、奴隷商人の一団が市に集まった人々に銃を撃ちかけ、数百人を殺すのを目の前で見ていた。スタンリーの持ってきた薬と食べ物で、彼は元気を取り戻した。二人は4か月あまりを共に過ごし、舟でタンガニーカ湖の北の端まで行って、北のルジジ川が湖から流れ出しているのではなく、湖へ流れ込んでいることを確かめた。この湖がナイルにつながっているのではないか、という考えは、ここで崩れた(バートンとスピークのタンガニーカ湖)。

1872年のスタンリーと、アフリカ人奴隷の養子
1872年のスタンリーと、アフリカ人奴隷の養子Wikimedia Commons London Stereoscopic & Photographic Company · Public domain

1872年3月14日、二人はタボラで別れた。スタンリーは一緒に帰ろうと勧めたが、リヴィングストンはナイルの源を確かめるまでは帰らないと言って断った。スタンリーは手紙と日誌を預かって海岸へ下り、8月にイギリスへ着いた。王立地理学会の一部の人々は、アメリカの新聞記者の話を疑い、手紙も偽物ではないかと言った。だが、リヴィングストンの家族が筆跡を本物と認め、ヴィクトリア女王はスタンリーに宝石をちりばめた金の嗅ぎたばこ入れを贈った。スタンリーの本『いかにして私はリヴィングストンを見つけたか』はよく売れた。ニャングウェの虐殺を伝えるリヴィングストンの手紙は世論を動かし、1873年、イギリスの圧力でザンジバルの奴隷市場は閉じられた。

リヴィングストンはふたたび湖の地方へ入り、1873年5月1日、いまのザンビアのチタンボの村で、寝台の脇にひざまずいた姿で死んでいるのが見つかった。従者のスシとチュマたちは、心臓を木の根元に埋め、遺体を乾かして包み、何か月もかけて海岸まで運んだ。1874年4月、遺体はロンドンのウェストミンスター寺院に葬られ、スタンリーは棺を担ぐ一人になった。

モントレーで展望車を背にしたスタンリー一行(1891年3月19日)
モントレーで展望車を背にしたスタンリー一行(1891年3月19日)Wikimedia Commons By Taber · Public domain

スタンリーはその年のうちにアフリカへ戻り、ヴィクトリア湖とタンガニーカ湖を舟で一周したあと、コンゴ川を河口まで下った。1877年8月、大西洋岸のボマに着いたとき、出発から999日がたっていた。この旅のあと、彼はベルギー王レオポルド2世に雇われ、コンゴ川沿いに道と拠点を作った。岩を砕いて道を開く彼を、土地の人々は「ブラ・マタリ」(岩を砕く者)と呼んだという。やがてその土地は王の私領コンゴ自由国(コンゴ自由国)となり、ゴムの取り立てのために多くの人が殺され、手を切られた。

ウジジでの出会いは、二人の探検家の美談として語り継がれた。だが、その一言が言われたかどうかは分からない。そしてリヴィングストンを見つけた男は、そのあと、彼が奴隷の取引から守ろうとした土地を、ヨーロッパの王のために切り開くことになった。

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