概要
ビスマルクがエムス電報でナポレオン3世を挑発し、フランスが宣戦した。6週間。モルトケの鉄道と参謀本部。スダンで13万のフランス軍が包囲され、皇帝が自分で降伏した。2日後、パリで共和政が宣言された。皇帝は捕虜になり、イギリスで死んだ。フランスはアルザス・ロレーヌを失い、1914年まで取り返すことを考えた。
場所
49.70°N 4.94°E · フランス
関わった人(2)
ナポレオン3世AD1808年4月20日–AD1873年1月9日 · 降伏したビスマルクAD1815年4月1日–AD1898年 · 挑発した本文
1870年7月、スペインの王位にホーエンツォレルン家の公子が候補になり、フランスが抗議し、公子は辞退した。フランスはさらに「今後も候補にしない」保証を求めた。エムスで療養中のヴィルヘルム1世は大使に「これ以上言うことはない」と穏やかに断り、ベルリンのビスマルクに電報した。ビスマルクは電報を短く編集して、フランス大使を追い返したように読める形で、新聞に出した。エムス電報。パリは怒った。7月19日、宣戦。
プロイセンは待っていた。参謀総長モルトケの鉄道の計画。18日で48万人が国境に。フランスは26万。指揮は混乱していた。8月、ヴェルト、シュピシェレン、マルス・ラ・トゥール、グラヴロット。バゼーヌ元帥の17万がメッツに閉じ込められた。マクマオン元帥が救援に向かい、皇帝が同行した。
8月30日、ボーモンで奇襲され、スダンに退いた。ムーズ川の谷の小さな要塞の町。9月1日、モルトケが周りの丘を全部取った。「鼠取り」。ドイツの砲兵がクルップの後装砲で撃ち下ろした。マクマオンが負傷し、指揮が代わって、代わって。ナポレオン3世は膀胱結石の激痛で馬に乗っていられず、白粉で顔色を隠して前線を歩いて、砲弾で死ぬことを願った、と言われる。午後、白旗。「私は軍の先頭で死ねなかったので、剣を陛下の手に置く」とヴィルヘルムに手紙を書いた。
9月2日、降伏。将軍39人、士官2800人、兵8万3000人が捕虜。皇帝はカッセルの宮殿へ。
9月4日、パリ。議会に群衆が入り、ガンベッタが市庁舎で共和政を宣言した。第三共和政。皇后ウジェニーはアメリカ人の歯医者の家を経由してイギリスへ。
戦争は続いた。パリ包囲、ガンベッタが気球で脱出して地方で軍を集めた。1871年1月28日、休戦。5月、フランクフルト条約。アルザスとロレーヌの一部、賠償金50億フラン。フランスは「復讐(ルヴァンシュ)」を43年考えた。