スダン(セダン)の戦い

概要
ビスマルクがエムス電報でナポレオン3世を挑発し、フランスが宣戦した。6週間。モルトケの鉄道と参謀本部。スダンで13万のフランス軍が包囲され、皇帝が自分で降伏した。2日後、パリで共和政が宣言された。皇帝は捕虜になり、イギリスで死んだ。フランスはアルザス・ロレーヌを失い、1914年まで取り返すことを考えた。
場所
49.70°N 4.94°E · フランス
関わった人(2)
ナポレオン3世AD1808年4月20日–AD1873年1月9日 · 降伏したビスマルクAD1815年4月1日–AD1898年 · 挑発した本文
1866年、プロイセンはオーストリアとの戦争に短期間で勝ち、北ドイツの諸国をまとめた。首相ビスマルクの目標は、残る南ドイツの国々も加えてドイツを統一することだった。そのために、南の国々を結束させる「共通の敵」としてフランスとの戦争を利用できると、ビスマルクは考えていた。フランスの皇帝ナポレオン3世の側も、隣に強大なドイツが生まれることを恐れ、国内での人気を取り戻すために外交の勝利を求めていた。
1870年の夏、火種となったのはスペインの王位だった。空いたスペインの王位に、プロイセン王家ホーエンツォレルン家の一門の公子レオポルトが候補として浮上した。東西からプロイセンの王家に挟まれることを恐れたフランスは強く抗議し、公子は候補を辞退した。フランスはここで引かず、今後も二度と候補に立てないという保証をプロイセン王から取りつけようとした。

7月13日、温泉地エムスで静養していたプロイセン王ヴィルヘルム1世のもとに、フランス大使ベネデッティが来て、保証を求めた。王はそれ以上の約束はできないと穏やかに断り、その次第を電報でベルリンのビスマルクに知らせた。ビスマルクは電報の文面を短く削り、王が大使を冷たく追い返したように読める形にして新聞に発表した。エムス電報事件である。パリの新聞と世論は激昂し、7月19日、フランスはプロイセンに宣戦した。南ドイツの国々は、プロイセンの側について参戦した。
戦争の準備では、プロイセンが大きく上回っていた。参謀総長のモルトケは、鉄道を使った動員と輸送の計画を細かく練り上げており、数十万の兵が短い期間で整然と国境に集まった。フランス軍の動員は混乱し、兵と装備と指揮官がばらばらに国境へ向かった。フランス軍の後装式の小銃シャスポー銃はプロイセンの銃より優れていたが、プロイセンには、クルップ社の鋼鉄製の後装式の大砲があった。

8月の初めから、フランス軍は国境の戦いで次々に敗れた。ヴェルト、シュピシュラン、そしてメッスの西のマルス・ラ・トゥールとグラヴロットでの激戦を経て、バゼーヌ元帥の率いるフランスの主力17万あまりは、要塞都市メッスに閉じ込められた。マクマオン元帥は、新たに編成した軍でメッスの救援に向かうことになり、病身のナポレオン3世も軍とともに進んだ。
救援の軍は、ドイツ軍に動きを読まれていた。8月30日、ボーモンで奇襲を受けたマクマオンの軍は、ベルギーとの国境に近いムーズ川沿いの小さな要塞の町スダンに退いた。周りを丘に囲まれた、くぼ地の町である。9月1日、ドイツ軍は町を取り囲む丘を次々に押さえ、包囲の輪を閉じた。丘の上に並べられた何百門もの大砲が、くぼ地に押し込められたフランス軍に砲弾を浴びせた。フランスの将軍の一人は、我々は便壺の中にいる、と言ったと伝えられる。

戦いが始まってまもなく、マクマオンは負傷し、指揮権は将軍の間を転々とした。包囲を破ろうとするフランスの騎兵の突撃は、勇敢だったが、砲火の前に崩れた。ナポレオン3世は、膀胱の結石の激しい痛みに苦しみ、馬に乗るのもやっとだった。顔色の悪さを化粧で隠して戦場を回り、砲弾に当たって死ぬことを望んでいたとも言われる。死は訪れなかった。
午後、町に白旗が掲げられた。ナポレオン3世は、プロイセン王に宛てて短い手紙を書いた。我が軍の只中で死ぬことがかなわなかったので、私の剣を陛下の手に委ねるほかはない、という内容である。9月2日、フランス軍は正式に降伏した。皇帝とともに、10万を超える将兵が捕虜となった。皇帝はドイツのカッセルにある宮殿に送られ、そこで捕虜として過ごすことになった。

皇帝が捕らえられたという知らせは、9月3日にパリに届いた。翌9月4日、群衆が議会に押し寄せ、共和派の議員ガンベッタらが市庁舎で共和政を宣言した。第三共和政の始まりである。皇后ウジェニーは、宮殿を逃れ、パリのアメリカ人の歯科医の助けを借りて、イギリスへ渡った。ナポレオン3世が1851年のルイ・ナポレオンのクーデターで築いた第二帝政は、こうしてあっけなく終わった。
戦争はなお続いた。ドイツ軍は9月の半ばからパリを包囲し、国防政府の一員となったガンベッタは、気球に乗って包囲されたパリを脱出し、地方で新たな軍を集めて抵抗を続けた。10月にはメッスのバゼーヌも降伏した。1871年1月18日、包囲の続く中、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で、ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝として即位した(ドイツ帝国の成立)。1月28日、パリは休戦を受け入れた。
5月のフランクフルト講和条約で、フランスはアルザスとロレーヌの一部をドイツに割譲し、50億フランの賠償金を支払うことになった。その間、パリでは講和に反発した民衆がパリ・コミューンを打ち立て、5月に政府軍によって血の中で鎮圧された。ナポレオン3世は解放されたのちイギリスに亡命し、1873年にロンドン郊外で死んだ。

失った二つの地方を取り戻すことは、その後のフランスの悲願になった。パリのコンコルド広場に並ぶフランスの各都市を表す像のうち、アルザスの都ストラスブールの像には、長く黒い喪章がかけられていたという。復讐を意味する「ルヴァンシュ」の思いは、40年あまりのちの第一次世界大戦で現実の戦争となり、1919年のヴェルサイユ条約は、まさに鏡の間で調印されることになる。