スカルノ
概要
インドネシア独立を宣言し、バンドン会議で第三世界の連帯を掲げた。
関わったできごと(2)
インドネシア独立宣言AD1945年8月17日 · 宣言バンドン会議AD1955年 · 主催本文
スカルノは1901年6月6日、オランダ領東インドのジャワ島東部、スラバヤに生まれた。父はジャワ人の小学校教師、母はバリ島の出身だった。ジャワ人の多くと同じく、姓は無く、名はこの一つだけである。少年時代、スラバヤでイスラーム同盟の指導者チョクロアミノトの家に下宿し、そこに出入りする民族運動家たちの議論を聞いて育った。

1921年、バンドンの工科大学に入り、1926年に土木技師として卒業した。オランダの植民地で、現地の人が高等教育を受けられる例は少なかった。だが彼は技師の道を進まず、翌1927年にインドネシア国民党を結成した。宗教や地域で分かれていた運動を、インドネシアという一つの国の独立という目標でまとめようとしたのである。演説の名手で、群衆を熱狂させた。
植民地政府は彼を危険視した。1929年に逮捕され、裁判の法廷で行った弁論「インドネシアは告発する」は、植民地支配への告発として広く読まれた。1931年にいったん釈放されたが、1933年に再び捕らえられ、裁判なしでフローレス島へ、ついでスマトラ島のベンクルへ流された。流刑は約8年に及んだ。

1942年、日本軍がオランダ軍を破ってジャワを占領すると、スカルノは解放された。彼は日本軍政に協力する道を選び、ラジオや集会で民衆に語りかける立場を得た。独立運動の組織を広げる場を手に入れた一方、日本軍の労務者(ロームシャ)の動員にも名を貸すことになった。この協力をどう評価するかは、いまも分かれている。1945年6月には、建国の五原則(パンチャシラ)を演説で示した。民族主義、人道主義、民主主義、社会正義、そして唯一神への信仰で、のちに国是となった。
日本が降伏した2日後の1945年8月17日、スカルノは盟友モハマッド・ハッタと連名で独立を宣言し、初代大統領になった(インドネシア独立宣言)。だが戻ってきたオランダは独立を認めず、4年にわたる戦争と交渉が続いた。1949年末、ようやくオランダは主権の移譲を受け入れた。

1955年4月、スカルノはバンドンにアジアとアフリカの29か国を招いた(バンドン会議)。開会の演説で、彼はこれを人類の歴史で初めての有色人種による大陸間会議だと述べた。インドのジャワハルラール・ネルー、中国の周恩来、エジプトのガマール・アブドゥル=ナセルらが集まり、米ソのどちらにもつかない国々の連帯が、ここで目に見える形になった。のちの非同盟運動につながる会議である。
国内の政治は安定しなかった。議会では政党が乱立して内閣が次々に倒れ、地方では反乱が起きた。スカルノは1959年に議会制を退けて大統領に権限を集め、これを「指導される民主主義」と呼んだ。民族主義、宗教、共産主義の三つの勢力を束ねるという考えで、国軍と、勢力を伸ばしていたインドネシア共産党とを競わせ、自分がその上に立って均衡を取った。1963年には終身大統領となり、新しくできたマレーシアを英国の新植民地主義だとして武力で対決し、1965年には国連を脱退した。この間、経済は激しいインフレに陥った。
均衡は1965年に崩れた。9月30日の夜、軍の将軍6人が殺害され、軍はこれを共産党の陰謀だとして反撃した(インドネシアの九・三〇事件)。陸軍のスハルト少将が実権を握り、その後の数か月で、共産党員やその疑いをかけられた人々が各地で殺された。死者は50万人前後とされ、100万人を超えるとする推計もある。事件の背後に誰がいたのか、スカルノ自身がどこまで知っていたのかは、今も分かっていない。

スカルノは翌1966年3月に、治安回復の権限をスハルトに渡す命令書に署名させられた。1967年には大統領の権限を奪われ、1968年にスハルトが正式に大統領になった。スカルノは自宅などで軟禁され、1970年6月21日にジャカルタで死んだ。69歳だった。彼の名誉がはっきり回復されたのは、スハルト体制が倒れた後のことである(スハルトの退陣)。2001年には娘のメガワティが大統領に就いた。首都の国際空港は、スカルノとハッタの名をとって呼ばれている。