イェルマークのシビル汗国征服
概要
ストロガノフ家が雇ったコサック840人が、火縄銃でウラルを越え、シビル汗国の都を取った。イェルマークは3年後に川で溺れた。鎧が重かった。ロシアはそのあと60年で太平洋に着いた。毛皮を追って。シベリアの名は、この汗国から。
場所
58.18°N 68.40°E · ロシア・チュメニ州
関わった人(1)
イェルマーク?–AD1585年8月6日 · 率いた本文
1582年10月、ウラル山脈の東を流れるイルティシ川のほとりで、数百人のコサックが、シビル汗国の軍を火縄銃で打ち破った。率いていたのはイェルマークという名の頭目である。コサックたちは汗国の都カシュリクに入り、汗は南の草原へ逃れた。小さな私兵の遠征が、ロシアのシベリアへの進出の扉を開いた。それから60年足らずで、ロシア人は太平洋の岸にたどり着く。シベリアという地名そのものが、この汗国の名から来ている。
16世紀の半ば、モスクワの大公国は東へ大きく伸びようとしていた。イヴァン4世(雷帝)は、1552年にヴォルガ川中流のカザン汗国を攻め落とし(カザン攻略)、続いてヴォルガ下流のアストラハン汗国も併合した。かつてロシアを支配したキプチャク汗国の流れをくむ国々が、次々にモスクワの手に落ちていった。カマ川の流域からウラル山脈の西麓までの広い土地は、1558年、皇帝の特許状によって豪商ストロガノフ家に与えられた。ストロガノフ家は塩を煮る事業で財を成し、未開の土地に村を開き、毛皮の取引で富を蓄えていた。
ウラルの東には、シビル汗国があった。チンギス・カンの長男ジョチの子孫、シャイバーン家の血を引く汗クチュムが、1560年代に前の支配者を倒して位に就いていた。クチュムはイスラームを広め、周りの森に住むハンティやマンシの人びとから毛皮の貢ぎ物を取り立てた。初めはモスクワに貢ぎ物を送っていたが、やがてそれをやめ、ウラルを越えてストロガノフ家の村々を襲うようになった。
ストロガノフ家は自衛のため、そして東の毛皮の土地へ手を伸ばすため、コサックを雇った。コサックとは、南ロシアの草原の辺境に住み着いた、国家の支配の外で暮らす武装した自由民の集団である。イェルマークの若いころについては、確かなことがほとんど分かっていない。ヴォルガ川の流域で船を襲う略奪を働き、皇帝の軍に追われていたとも伝えられる。イェルマークはおよそ540人のコサックを率いてストロガノフ家のもとに来て、ストロガノフ家はこれに数百人を加え、食料と武器、火縄銃と小さな大砲を持たせた。遠征の出発の年は、年代記によって1579年、1581年、1582年と食い違っている。

一行は川の道でウラルを越えた。カマ川の支流のチュソヴァヤ川を小舟でさかのぼり、ウラルの峠では舟を引きずって山を越え、東へ流れるタギル川、トゥラ川、トボル川を下っていった。森に囲まれた川の両岸から、汗国の兵が矢を射かけてきた。コサックの武器は火縄銃だった。弓矢で戦う汗国の兵にとって、轟音とともに遠くから人を倒す銃は、恐ろしいものだったに違いない。
1582年10月26日、汗国の都のすぐ手前、イルティシ川のチュヴァシ岬で、クチュムの甥マメトクルが率いる軍との決戦があった。兵の数では汗国が大きく上回っていたが、コサックは銃で攻め立て、激しい戦いの末に勝った。汗国に従っていた周辺の民の兵が逃げ出したことも、勝敗を分けたとされる。クチュムは都を捨てて南の草原へ退き、数日後、イェルマークたちは都カシュリクに入った。この都は「イスケル」とも「シビル」とも呼ばれていた。まもなく周りに住むハンティやマンシ、タタールの人びとが、毛皮を携えて服従を申し出てきた。

イェルマークは使いをモスクワへ送り、征服した土地を皇帝に献上して、大量の毛皮を届けた。イヴァン雷帝はコサックたちのそれまでの罪を赦し、褒美を与えた。年代記には、皇帝がイェルマークに鎖帷子を二領と、自分の毛皮の外套を贈ったと記されている。1584年には皇帝の援軍がシベリアに着いたが、備えは乏しく、冬の飢えと病で多くが死んだ。数百人のロシア人で広大な土地を押さえ続けるのは、無理があった。
クチュムは草原から反撃の機会をうかがっていた。1585年8月の夜、イルティシ川の支流ヴァガイ川の河口で野営していたイェルマークの一隊を、クチュムの兵が襲った。雨の降る夜だったと伝えられる。不意を突かれたイェルマークは、舟に逃れようとして川に飛び込み、そのまま沈んだ。皇帝から贈られた重い鎖帷子が彼を引きずり込んだのだという。年代記によれば、後にタタール人が遺体を見つけ、その鎧を剥ぎ取ったとされるが、これらの話には伝説の色が濃い。指導者を失った残りのコサックは、シベリアを捨ててウラルの西へ引き揚げた。
それでもロシアは退かなかった。翌1586年には皇帝の軍がチュメニに、1587年にはトボリスクに要塞の町を築いた。木の柵で囲った小さな砦(オストログ)を川沿いに次々と置き、そこを足場に周りの民から毛皮の税を取り立てる。これが、その後のシベリア進出の型になった。クチュムは1598年に最後の戦いで敗れ、汗国は滅んだ。
ロシア人の東への進み方は驚くほど速かった。シベリアの大河は、東西にほぼ平行して流れ、支流どうしが近づいているところで陸を少し運べば、次の大河へ移ることができた。1604年にトムスク、1619年にエニセイスク、1632年にヤクーツクが建てられ、1639年には一隊がオホーツク海の岸に達した。1648年には、コサックのデジニョフが、アジアとアメリカを隔てる海峡を船で回り込んだ。のちにベーリングがその海峡を確かめる(ベーリングの海峡)。南では清と衝突し、1689年のネルチンスク条約で国境を定めた。

ロシア人を東へ駆り立てたのは毛皮だった。とりわけクロテンの毛皮は「柔らかい金」と呼ばれ、ヨーロッパや中国で高く売れた。毛皮は国の重要な収入源となり、シベリアの民は「ヤサク」と呼ばれる毛皮の貢ぎ物を課された。その取り立ては苛烈で、ロシア人が持ち込んだ天然痘などの病も、人口の少ない森の民に大きな打撃を与えた。
ロシアでは、イェルマークは国を広げたコサックの英雄として語り継がれてきた。19世紀の初め、詩人ルィレーエフが彼の死を歌った詩は、民謡のように広く歌われた。画家スリコフは1895年、コサックと汗国の兵がぶつかる場面を大作に描いた。トボリスクには1839年に彼の記念碑が建てられ、ロシアの最初の大型砕氷船にもその名が付けられた。一方、シベリアにもとから住んでいたハンティやマンシ、タタールの人びとにとって、彼の遠征は征服の始まりにほかならない。英雄の物語の陰で、征服された側がイェルマークをどう記憶しているかは、あまり語られてこなかった。