アクバルの宗教討論
概要
宮廷に「信仰の館」を建て、イスラーム、ヒンドゥー、ジャイナ、ゾロアスター、そしてイエズス会の宣教師を招いて議論させた。文字を読めない皇帝が、聞いて判断している。
場所
27.09°N 77.67°E · インド・ウッタルプラデーシュ州
関わった人(1)
アクバルAD1542年–AD1605年 · 主宰本文
ムガル帝国の第3代皇帝アクバルは、1556年、13歳で帝位を継いだ。祖父バーブルがインドに開いた帝国(ムガル帝国の成立)は、父フマーユーンの代に一度インドを追われ、取り戻したばかりだった。アクバルは征服を重ねて北インドの大半を従え、ヒンドゥー教徒のラージプートの王家とは婚姻を結んで味方に引き入れた。帝国の住民の多くはヒンドゥー教徒で、イスラム教徒は支配層の少数派だった。
アクバルは早くから、異なる信仰の人々と共に治める道を選んでいた。1563年には、ヒンドゥー教徒の巡礼者に課していた税を廃止し、1564年には、イスラム教徒でない者に課す人頭税(ジズヤ)も廃止した。これらは、信仰の館での討論よりも前のことである。

1570年前後、アクバルは都アーグラの西に、新しい都ファテープル・シークリーを築き始めた。1575年、その宮殿の一角に建てられたのが「イバーダト・ハーナ(信仰の館)」である。初めは、イスラム教の学者たちだけを集め、毎週木曜の夜、つまりイスラムの暦で金曜の前夜に、信仰や法をめぐって議論させた。しかし、学者たちは互いの見解をめぐって激しく罵り合い、宮廷の歴史家バダーウーニーは、議論が怒号と非難の応酬になったさまを書き残している。この光景は、アクバルの学者たちへの信頼を揺るがした。
アクバル自身も、若いころから神秘的な体験に心を寄せていた。夜明けに一人で長く瞑想し、イスラムの神秘主義者(スーフィー)の聖者の廟を訪ねた。ファテープル・シークリーに都を築いたのも、男子の誕生を予言したとされる聖者サリーム・チシュティーがこの地に住んでいたからだと伝えられる。その予言どおりに生まれた皇子が、のちの皇帝ジャハーンギールである。

1578年ごろから、館の扉は他の信仰にも開かれた。ヒンドゥー教の学者、ジャイナ教の僧、ゾロアスター教の祭司、ユダヤ教徒も招かれた。1580年には、ゴアのポルトガル人のもとからイエズス会の宣教師たちが到着し、議論に加わった(イエズス会の創立)。宣教師のモンセラーテは、皇帝が熱心に質問し、聖母子の絵に敬意を払い、自分の子に宣教師から学ばせたことを記録している。宣教師たちは改宗を期待したが、アクバルが洗礼を受けることはなかった。
アクバルは、読み書きができなかったとされる。それでも記憶力にすぐれ、毎日、人に本を読み上げさせ、多くの書物の内容をそらんじていた。信仰の館での討論も、聞いて考え、問いを投げかけることで加わった。宮廷では、ヒンドゥー教の叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』をペルシア語に訳させる事業も進められた。

1579年、宮廷の学者たちは、宗教上の解釈が分かれたとき、公正な君主としての皇帝の判断が優先する、という趣旨の文書に署名させられた。これは、イスラムの学者たちの権威を皇帝の下に置くものだった。1580年には、これに反発した東部のイスラム教徒の将軍たちが反乱を起こしている。
1582年ごろ、アクバルは、のちに「ディーネ・イラーヒー(神の宗教)」と呼ばれる教えを唱えた。皇帝を導き手とする弟子の集まりのようなもので、名の伝わる参加者は、側近の学者アブル・ファズルら20人に満たない。新しい宗教というより、皇帝への忠誠を誓う宮廷の集団に近かったとみる研究者が多い。信仰の館での討論も、このころには開かれなくなった。
アクバルの宗教政策を貫いていたのは、「スルヘ・クル(すべてとの和)」と呼ばれる原則だった。どの信仰を持つ者も、帝国の臣民として等しく扱い、争わせない。アブル・ファズルが書いた年代記『アクバル・ナーマ』は、これを理想の統治として描いた。一方で、正統派のイスラム教徒からは、皇帝がイスラムを捨てたという批判も受けた。
アクバルの曾孫アウラングゼーブは、1679年、ジズヤを復活させた(アウラングゼーブの治世)。廃止から100年あまり後のことである。アクバルの寛容をどう評価するかは、今のインドでも、国の成り立ちをめぐる論争と結びついて語られている。