ウーンデッド・ニーの虐殺

概要
武装解除の最中に発砲が起き、300人近いラコタが殺された。北米先住民との戦争の終わりとされる。
場所
43.14°N -102.37°E · アメリカ合衆国・サウスダコタ州
関わった人(1)
シッティング・ブルAD1831年頃–AD1890年12月15日 · その2週間前に殺された本文
19世紀の後半、北アメリカの大平原で暮らしてきたラコタ(スー)の人々は、追い詰められていた。暮らしの土台だったバイソンは、白人の狩人たちに撃ち尽くされ、ほとんど姿を消していた(アメリカバイソンの激減)。大陸横断鉄道の開通が平原を横切り、入植者が押し寄せた。ラコタは1876年、リトルビッグホーンの戦いでカスターの率いる第7騎兵隊を全滅させたが、その後は軍に追われ、保留地へ押し込められた。1889年には、広い保留地が切り分けられて、その多くが白人に開放された。翌年、日照りで作物が枯れ、政府の配給の食料も減らされた。
そのころ、西のネバダに住むパイユートの男ウォヴォカが、神の幻を見たと語り始めた。輪になって踊り、正しく生きれば、死んだ祖先がよみがえり、バイソンが戻り、白人のいない新しい世界が来る、という教えである。ゴーストダンス(亡霊踊り)と呼ばれたこの踊りは、平原の諸部族に広まった。ラコタのあいだでは、銃弾を通さないとされる「亡霊のシャツ」を着て踊る者も現れた。

保留地の役人たちは、この踊りを反乱の前触れと見て恐れた。軍が呼ばれ、指導者たちを捕らえる命令が出た。1890年12月15日、スタンディングロック保留地で、シッティング・ブルを逮捕しに来た先住民の警官と、彼を守ろうとした人々のあいだで撃ち合いになり、シッティング・ブルは撃たれて死んだ。踊りを主導していたわけではなかったが、白人にとっては抵抗の象徴だった。
逃げた人々の一部は、ミネコンジュー・ラコタの首長ビッグ・フットの一団に加わった。ビッグ・フットは肺炎を患いながら、より安全と考えたパインリッジ保留地へ向かった。12月28日、第7騎兵隊が一団を見つけ、ウーンデッド・ニー川のほとりで野営させた。一団は350人ほどで、その多くは女性と子どもだった。兵士は500人ほどで、丘の上には連射のできる大砲が4門据えられた。

12月29日の朝、兵士たちは一団の武器を取り上げ始めた。テントの中まで探し、銃を集めた。その最中に、一発の銃声が響いた。耳の聞こえない男が銃を手放すのを拒み、もみ合いになって暴発した、と伝える証言が多い。それをきっかけに、兵士たちは至近距離から一斉に撃ち始めた。丘の上の大砲も、テントや逃げる人々に向けて撃ち込まれた。逃げた女性や子どもが、数キロ先まで追われて撃たれた跡もあった。
殺されたラコタは、250人から300人ほどとされる。正確な数は分かっていない。兵士の側も25人が死んだが、その多くは味方の撃った弾に当たったとみられている。

その夜、平原は吹雪になった。遺体は雪の中に凍ったまま数日放置された。年が明けて、雇われた人々が遺体を集め、丘の上に掘った一つの穴にまとめて埋めた。凍りついた遺体を写した写真が残っている。生き延びた人々は教会に運ばれ、そこではクリスマスの飾りがまだ下がっていたという。
軍はこの戦いで勇敢に戦ったとして、兵士20人に名誉勲章を与えた。指揮官は一時職を解かれたが、まもなく復帰した。勲章の取り消しを求める声は、いまも先住民の人々のあいだで続いている。1990年、アメリカの議会は事件から100年にあたり、深い遺憾の意を表す決議をした。

この日をもって、北アメリカでの白人と先住民の大きな戦いは終わったとされる。同じ1890年の国勢調査の報告は、もはや開拓の最前線(フロンティア)と呼べる線は無くなった、と記した。
事件は長く、白人の側の「戦い」として語られてきた。1970年に出たディー・ブラウンの本『わが魂を聖地に埋めよ』は、先住民の側から西部の歴史を描き直し、ウーンデッド・ニーの名を世界に知らせた。1973年には、アメリカン・インディアン運動の活動家たちがウーンデッド・ニーの村を占拠し、71日間にわたって連邦政府と対峙した。殺された人々の眠る丘は、いまも保留地の中にある。