概要
フランスのレセップス(スエズの成功者)が1881年に着工し、海面式にこだわり、マラリアと黄熱で2万人以上を失って破綻した。アメリカが引き継ぎ、コロンビアが条件を拒むとパナマの独立運動を支援して新国家を承認し、運河地帯の権利を得た。ゴーガスが蚊を絶ち、閘門式に設計を変え、山を切り、川をせき止めて人造湖を作った。ニューヨークからサンフランシスコが2万2千キロ短くなった。1999年、パナマに返還された。
場所
9.08°N -79.68°E · パナマ
本文
パナマ地峡は、最も狭いところで**80km**。ここを掘れば、南アメリカの南端(ホーン岬)を回らずに、大西洋と太平洋が繋がる。ニューヨークからサンフランシスコが、2万2500km短くなる。
16世紀から構想があった。1534年、スペイン王カルロス1世が調査を命じた。
**フランスの挑戦**(1881〜1889)。
**フェルディナン・ド・レセップス**。スエズ運河を成功させた男。外交官で、技術者ではない。74歳。
彼は**海面式**(水路をひたすら掘り下げ、両端の海面と同じ高さにする)にこだわった。スエズがそうだったから。
しかし、スエズは平坦な砂漠である。パナマには、標高110mの分水嶺(クレブラの丘)があり、雨季には水位が10m以上変動する暴れ川(チャグレス川)があり、そして雨が降る。年間3000mm以上。掘れば崩れ、また掘る。
そして、**病気**。マラリアと黄熱病。
原因が分かっていなかった。「悪い空気」と考えられていた。病院では、蟻が這い上がらないように、ベッドの脚を水を張った皿に立てていた。その皿が、蚊の繁殖場になっていた。
死者、約2万2000人(記録の残っている範囲。実数はもっと多いとされる)。
1889年、会社が破綻。80万人の小口株主が全財産を失った。フランス政治史上最大級の醜聞(パナマ事件)になり、賄賂を受け取った政治家と記者が摘発された。レセップスは有罪判決を受け(後に破棄)、失意のうちに死んだ。
**アメリカ**。
1898年の米西戦争で、戦艦オレゴンが西海岸から大西洋へ回航するのに、ホーン岬経由で67日かかった。運河の戦略的な価値が、はっきりした。
セオドア・ローズヴェルト大統領。1902年、フランスの資産を4000万ドルで買い取ることを決めた。
**コロンビア**。当時、パナマはコロンビアの一州だった。1903年のヘイ=エラン条約で、アメリカは運河地帯の租借を求めたが、コロンビア上院が条件(金額と主権)を不服として批准を拒否した。
1903年11月3日、パナマで独立の蜂起が起きた。アメリカの軍艦ナッシュヴィルが港に現れ、コロンビア軍の上陸を阻んだ。アメリカは**3日後にパナマを承認**した。
11月18日、ヘイ=ビュノー=ヴァリラ条約。運河地帯(幅16km)の永久的な支配権をアメリカが得た。署名したパナマ側の代表フィリップ・ビュノー=ヴァリラは、フランス人であり、旧運河会社の株主であり、そしてパナマに住んだことがほとんどなかった。
ローズヴェルトは後に言った。「私は地峡を取った」。
**工事**(1904〜1914)。
(1)**蚊**。**ウィリアム・ゴーガス**軍医が、ハバナで黄熱病の撲滅に成功した方法を持ち込んだ。原因は蚊である(1900年、ウォルター・リードの実験隊がキューバで証明した)。
網戸、蚊帳、水たまりの排除、溜まり水への油の散布、下水と上水の整備、燻蒸。予算をめぐって上層部と激しく対立したが、ローズヴェルトが彼を支持した。
1906年、黄熱病が地峡から消えた。マラリアの罹患率も激減した。
(2)**閘門式への変更**。技師長ジョン・スティーヴンス(鉄道技師)が、海面式を捨てて閘門式にすべきだと主張し、通した。
チャグレス川をせき止めて**ガトゥン湖**(当時、世界最大の人造湖)を作り、海抜26mまで船を持ち上げ、湖を渡らせ、反対側で降ろす。掘る量が、桁違いに減る。
(3)**土**。クレブラ・カット(後のゲイラード・カット)で、山を切り開いた。地滑りが繰り返された。掘り出した土砂の総量、約1億5000万立方メートル。掘っては崩れ、崩れては運び、それを鉄道で捨て場へ運ぶ——スティーヴンスの本当の貢献は、この「鉄道による土の管理」だったと言われる。
(4)**閘門**。ゲイトの扉は高さ20m、重さ700トン。当時としては巨大な電気機械。
**人**。工事に従事したのは、のべ数十万人。多くはバルバドス、ジャマイカ、その他の西インド諸島から来た黒人労働者だった。
賃金は**二本立て**だった。金貨で払われる「ゴールド・ロール」(主に白人アメリカ人。良い住宅と病院と休暇)と、銀貨で払われる「シルバー・ロール」(西インド諸島の黒人。粗末な宿舎、低い賃金、危険な作業)。食堂も、水飲み場も、分けられていた。
アメリカ期の死者、約5600人。うち4500人以上が西インド諸島の労働者。
**開通**。1914年8月15日、貨物船アンコン号が初通航した。
同じ月、ヨーロッパで戦争が始まっていた。世界の関心は、そちらにあった。開通式は簡素だった。
**その後**。
運河地帯は、アメリカの主権下の細長い領域として、パナマを二つに切っていた。パナマ人にとって、これは屈辱だった。
1964年1月9日、運河地帯の高校で、アメリカ人生徒が米国旗を掲げ、パナマ人学生が抗議して衝突した。米軍が発砲し、パナマ人21人が死んだ(「殉教者の日」)。パナマは一時、国交を断絶した。
1977年、カーター大統領とトリホス将軍が新条約に署名。1999年12月31日、運河はパナマに返還された。
2016年、拡張。より大きな船(ネオパナマックス)が通れるようになった。
「パナマックス」——運河の閘門に入る最大寸法——は、長らく、世界の船の設計を規定する寸法だった。