パナマ運河の開通
概要
フランスのレセップス(スエズの成功者)が1881年に着工し、海面式にこだわり、マラリアと黄熱で2万人以上を失って破綻した。アメリカが引き継ぎ、コロンビアが条件を拒むとパナマの独立運動を支援して新国家を承認し、運河地帯の権利を得た。ゴーガスが蚊を絶ち、閘門式に設計を変え、山を切り、川をせき止めて人造湖を作った。ニューヨークからサンフランシスコへの航路が、およそ1万3千キロ短くなった。1999年、パナマに返還された。
場所
9.08°N -79.68°E · パナマ
本文
中央アメリカのパナマ地峡は、大西洋(カリブ海)と太平洋を隔てる細い陸の帯である。いちばん狭いところでは幅50キロあまりしかない。1513年、バルボアがこの地峡を歩いて越え、ヨーロッパ人として初めて太平洋を目にした(バルボアの太平洋到達)。ここに水路を通せば、船は南アメリカの南端ホーン岬を大回りせずに二つの大洋を行き来できる。16世紀にはすでにスペイン王カルロス1世が運河の調査を命じていたが、当時の技術では夢物語だった。
最初に本気で挑んだのはフランスだった。中心にいたのは、1869年にスエズ運河の開通を開いたフェルディナン・ド・レセップスである。外交官出身で技術者ではなく、着工のときには70代の半ばだった。彼は1881年に工事を本格的に始め、スエズと同じく閘門を使わない海面式、つまり水路を海の高さまで掘り下げる方式にこだわった。

しかし、平らな砂漠のスエズとパナマはまるで違った。地峡の中央には分水嶺の山並みがあり、チャグレス川は雨季になると水位が10メートル以上も上下する暴れ川だった。雨は年に3000ミリを超え、掘った斜面は泥になって崩れ落ち、掘っては崩れ、また掘る作業が続いた。
さらに恐ろしかったのが病だった。マラリアと黄熱病が作業員と技師を次々に倒した。病の原因は分かっておらず、湿地から立ちのぼる悪い空気のせいだと考えられていた。病院ではベッドの脚に蟻が這い上がらないよう、水を張った皿に脚を立てていたが、その皿の水が蚊の湧く場所になっていたと伝えられる。フランスの工事の間に、およそ2万2000人が命を落としたと推計されている。

1889年、運河会社は破産した。株や債券を買っていた何十万というフランスの小口の投資家が財産を失った。会社が議員や新聞記者に金を配って資金集めを助けさせていたことも明るみに出て、第三共和政を揺るがす大疑獄(パナマ事件)になった。レセップス父子は有罪とされ(のち判決は破棄)、レセップスは失意のうちに1894年に世を去った。
次に乗り出したのがアメリカである。1898年の米西戦争で、戦艦オレゴンがサンフランシスコから大西洋側の戦場へ向かうのに、ホーン岬を回って67日かかった。二つの大洋に艦隊を持つ国にとって、運河の価値ははっきりした。大統領セオドア・ローズヴェルトのもと、1902年、議会はフランスの会社の権利と資産を4000万ドルで買い取ることを決めた。
障害は、当時パナマを一州として治めていたコロンビアだった。1903年に結ばれた運河地帯の租借の条約を、コロンビアの議会は金額と主権の条件を不服として批准しなかった。その年の11月3日、パナマで独立の蜂起が起きる。アメリカの軍艦ナッシュヴィルが港に現れてコロンビア軍の動きを封じ、アメリカは数日のうちに新しいパナマ共和国を承認した。
11月18日、両国は運河の条約に署名した。アメリカは幅16キロの運河地帯を永久に、主権者であるかのように支配する権利を得た。パナマ側で署名したフィリップ・ビュノー=ヴァリーヤはフランス人で、旧運河会社の関係者であり、パナマにはほとんど住んだことがなかった。パナマの人々は、自分たちの国の運命を外国人に決められたと受け止めた。ローズヴェルトはのちに「私は地峡を取った」と語っている。

1904年に始まったアメリカの工事は、まず蚊との戦いだった。陸軍の軍医ウィリアム・ゴーガスは、キューバのハバナで黄熱病を抑え込んだ方法を持ち込んだ。1900年、ウォルター・リードの調査団が、黄熱病は蚊が運ぶことを確かめていた(黄熱と蚊)。ゴーガスは家々に網戸を付け、水たまりをなくし、溜まり水に油をまき、上水と下水を整え、建物をいぶした。費用がかかりすぎると上層部と対立したが、大統領が彼を支えた。1906年を最後に地峡から黄熱病は消え、マラリアも大きく減った。
設計も変わった。鉄道技師出身の技師長ジョン・スティーヴンスは、海面式をあきらめて閘門式にすべきだと主張し、議会を説き伏せた。チャグレス川をガトゥンでせき止めて巨大な人造湖を作り、船を閘門で海抜26メートルの湖面まで持ち上げて湖を渡らせ、反対側で再び海へ降ろす。こうすれば、掘る量が大きく減る。スティーヴンスは土砂を運び出す鉄道の網も整え、工事の土台を作った。後を継いだ陸軍工兵のジョージ・ゴーサルズが、完成までを率いた。

最大の難所は、分水嶺を切り通すクレブラ・カット(のちのゲイラード・カット)だった。地滑りが何度も起き、一度掘った谷が埋まった。運び出した土は1億数千万立方メートルにのぼる。閘門の扉は1枚の高さが20メートル前後、重さは数百トンあり、電気の力で開け閉めされた。
工事を支えたのは、のべ何万人という労働者だった。その多くはバルバドスやジャマイカなどカリブ海の島々から来た黒人である。賃金は二本立てで、主に白人のアメリカ人は金で払われる「ゴールド・ロール」に入り、よい住まいと病院と休暇を与えられた。カリブの労働者は銀で払われる「シルバー・ロール」に入り、低い賃金で、粗末な宿舎に住み、危険な作業に回された。食堂も水飲み場も分けられていた。アメリカの工事の間の死者はおよそ5600人で、そのうち4500人ほどがカリブから来た労働者だった。
1914年8月15日、貨物船アンコン号が初めて運河を正式に通り抜けた。ニューヨークからサンフランシスコへの航路は、ホーン岬を回るのに比べて1万3000キロほど短くなった。だが同じ月、ヨーロッパでは第一次世界大戦が始まっていた。世界の目はそちらに向いていて、開通の式典はささやかなものになった。

運河地帯は、アメリカの法が通用する細長い土地として、パナマの国土を二つに切り分けていた。1964年1月9日、運河地帯の高校でパナマ国旗を掲げようとしたパナマの学生たちとアメリカ側の住民が衝突し、暴動の中でパナマ人20人あまりが死んだ。この日はいまも「殉教者の日」として記憶されている。1977年、アメリカのカーター大統領とパナマのトリホス将軍が新しい条約に署名し、1999年12月31日、運河はパナマに返された。
2016年には新しい大きな閘門が開き、より大型の船が通れるようになった。それまで、運河の閘門に入る最大の寸法は「パナマックス」と呼ばれ、世界の貨物船の設計を長く縛ってきた。一本の水路の幅が、100年にわたって世界の船の形を決めていたのである。