アドワの戦い

概要
エチオピアがイタリアを破った。アフリカ分割のなかで独立を守り抜いた唯一に近い例になる。
場所
14.19°N 38.90°E · エチオピア
関わった人(2)
メネリク2世AD1844年8月17日–AD1913年12月12日 · エチオピア側 · 総指揮タイトゥ・ベトゥルAD1851年頃–AD1918年2月11日 · 陣を張った本文
1896年3月1日の朝、エチオピア北部の町アドワ近くの山あいで、エチオピア軍がイタリア軍を打ち破った。昼過ぎには勝負がつき、イタリア軍は数千の死者を残して敗走した。ヨーロッパの列強がアフリカをほぼ分け終えようとしていた時代に、アフリカの国が正面からの戦いでヨーロッパの軍隊を退け、独立を守り抜いた。その例はほとんどない。
19世紀の後半、ヨーロッパの国々は競ってアフリカに進出した。1884年から翌年にかけてのベルリン会議とアフリカ分割を経て、分割は一気に進み(アフリカ分割)、20世紀の初めまでに独立を保った国はエチオピアとリベリアだけになる。統一を遂げて間もないイタリアも、遅れて植民地の獲得に乗り出した。紅海の沿岸に足場を築き、1890年にはそこをエリトリアと名づけて植民地にした。その内陸に広がるのが、山岳の古い王国エチオピアだった。

エチオピアは、自らをソロモン王とシバの女王の血を引く王家が治める国と称し、4世紀からキリスト教を奉じてきた(エチオピア・ソロモン朝の成立)。19世紀には地方の諸侯が割拠していたが、南部のショワ地方の王だったメネリク2世が力を蓄え、1889年に皇帝の位に就いた。彼は銃を大量に買い入れ、南と西へ領土を広げて、国の形を整えつつあった。
即位の年、メネリクはイタリアとウッチャリ条約を結んだ。問題になったのは第17条である。エチオピアの公用語アムハラ語の条文では、皇帝は外国との交渉にイタリアの仲介を「使うことができる」とされていた。ところがイタリア語の条文では「使うことに同意する」、つまり義務になっていた。イタリアはこれをもとに、エチオピアは自国の保護国になったと各国に通知した。メネリクが即位を知らせる手紙をヨーロッパの君主たちに送ると、イギリスやドイツから、今後はイタリアを通して連絡するようにという趣旨の返事が来た。こうして食い違いが明るみに出た。メネリクは抗議し、1893年に条約の破棄を通告した。

イタリアはエリトリアから兵を進めた。1895年の暮れ、北部のアンバ・アラギでイタリアの前線部隊がエチオピア軍に全滅させられる。翌年初めには、イタリア軍が守るマカレの砦がエチオピア軍に囲まれた。このとき皇后タイトゥ・ベトゥルは、砦の水源を押さえるよう進言したとされ、渇きに苦しんだ守備隊は条件つきで砦を明け渡した。
イタリア本国では、首相クリスピが早く勝利を挙げるよう現地の総司令官バラティエリに強く迫った。バラティエリは補給が細り、慎重に構えていたが、本国からの圧力と、更迭が近いという知らせに押されて、攻めに出ることを決めた。2月29日の夜、約1万7千の兵が四つの部隊に分かれて夜通し山道を進んだ。兵の中には、エリトリアで集められた現地兵(アスカリ)も多くいた。

エチオピア軍は、アドワの周りに集まっていた。兵の数は史料によって7万から10万を超えるまで幅があるが、イタリア軍の数倍だったことは確かである。その多くは、フランスやロシアなどから買い入れた新式の銃を持っていた。ロシアは同じ正教の国として好意的で、軍事の顧問や医療の団を送っていた。大砲もあった。イタリア側が思い描いていた、槍と盾だけの「未開の軍勢」ではなかった。
イタリア軍の夜間の行軍は、混乱を極めた。持っていた地図は不正確で、山の名前と位置を取り違えていた。左翼の部隊は目標を誤って本隊から何キロも先へ突出し、夜明けとともにエチオピア軍に囲まれた。ほかの部隊も互いに連絡がとれず、ばらばらに戦うことになった。エチオピア軍は地形を知り尽くしており、孤立した部隊を一つずつ包み込んでいった。皇后タイトゥも自ら兵を率いて陣を張り、女たちが前線に水を運んだと伝えられる。

正午を過ぎるころには、イタリア軍は総崩れになっていた。死者は6千前後、捕虜は3千ほどにのぼったとされる。エチオピア側の死者も数千に達した。捕らえられたアスカリの一部は、エチオピアに背いた者として右手と左足を切り落とされた。
敗北の知らせはイタリアに衝撃を与え、各地で暴動が起き、クリスピ内閣は倒れた。同じ年の10月、イタリアはアディスアベバで新しい条約を結び、ウッチャリ条約を破棄して、エチオピアの完全な独立を認めた。ただしエリトリアはイタリアの植民地として残された。メネリクは勝った勢いで北へ攻め込むことはしなかった。軍を長く養う力がなく、深追いすればイギリスやフランスの介入を招くと見ていたとされる。
アドワの後、ヨーロッパの国々はエチオピアに公使を送り、対等な国として扱うようになった。メネリクは新しい都アディスアベバに電信や鉄道を引き、学校を開いて、国の近代化を進めた。同じころ、2年後の1898年、スーダンのオムドゥルマンでは、機関銃を持つイギリス軍がイスラーム勢力の大軍を一方的に撃ち倒している(オムドゥルマンの戦い)。勇敢さだけでは列強に勝てなかった時代に、エチオピアは武器と外交と地の利をそろえて勝った。
アドワの勝利は、植民地にされたアフリカの人々や、アメリカ大陸のアフリカ系の人々にとって、誇りのよりどころになった。黒人が白人の帝国を打ち負かせることを示した出来事として、のちのパン・アフリカ主義の運動の中で繰り返し語られた。ガーナの独立以降に生まれた多くのアフリカの国が、国旗にエチオピアと同じ緑・黄・赤の色を選んだのは、そのためである。1963年に生まれたアフリカ統一機構の設立が本部をアディスアベバに置いたことにも、この記憶が重なっている。
だが、物語はそこで終わらなかった。40年後の1935年、ベニート・ムッソリーニのイタリアは、アドワの雪辱を掲げて再びエチオピアに攻め込んだ(イタリアのエチオピア侵攻)。今度は飛行機と毒ガスを使い、翌年には首都を落とした。皇帝ハイレ・セラシエ1世は国際連盟で訴えたが、各国は動かなかった。エチオピアが独立を取り戻したのは、第二次世界大戦中の1941年のことである。アドワの勝利は永遠の保証ではなかった。それでも、エチオピアの人々はいまも毎年アドワの勝利を祝い、その日を国の祝日にしている。