ペルシアの駅伝
概要
スーサからサルディスまで2500キロ。一日で行ける距離ごとに宿駅を置き、馬と人を待たせる。書簡が着けば、次の者が受け取って走る。ヘロドトスが書いている。「雪も雨も暑さも夜の闇も、定められた行程を全速で走り抜くことを妨げない」。徒歩なら90日の道を、1週間ほどで伝えたと推定される。帝国の広さは、命令が届く速さで決まる。この一文が、20世紀にニューヨークの中央郵便局(1914年開館)の壁に刻まれ、アメリカの郵便配達員の非公式の標語になった。
場所
32.19°N 48.25°E · イラン・フーゼスターン州
本文
紀元前6世紀の後半、アケメネス朝ペルシアは、東はインダス川から西はエーゲ海とエジプトまで、それまでのどの国よりも広い土地を治める帝国になった。言葉も宗教も習わしも違う多くの民を、一人の王が治める。そのためには、王の命令が帝国の隅々まで速く届き、各地で起きたことが速く王のもとへ届かなければならない。帝国の広さは、知らせが届く速さで決まる。
帝国の行政の中心の一つ、いまのイラン南西部のスーサから、小アジアの西の端、リュディアの古都サルディスまで、「王の道」と呼ばれる街道が通っていた。ギリシアの歴史家ヘロドトスによれば、その長さはおよそ1万3500スタディオン、いまの距離にして2500キロほどで、道沿いに111の宿駅があった。道の整備はダレイオス1世の時代に進められたとされるが、その一部はアッシリアなどそれ以前の帝国の道を受け継いだものである。

この道の上で、王の書簡を運ぶ駅伝が営まれていた。ギリシア人はこの制度を「アンガレイオン」と呼んだ。ペルシアの都ペルセポリスから見つかった大量の粘土板の行政文書には、速い使者を指す言葉と、彼らや宿駅の人馬に食料を配った記録が残っている。旅の許可証を持った役人や使者が、駅ごとに決まった量の食料を受け取って移動していたことも分かる。
仕組みは単純である。一日で進める距離ごとに宿駅を置き、そこに馬と乗り手を待たせておく。書簡が着くと、待っていた者がそれを受け取って次の駅まで駆け、そこでまた次の者に渡す。人も馬も、自分の受け持ちの区間を走るだけで休める。書簡だけが、昼も夜も止まらずに進み続ける。
ヘロドトスは『歴史』(ヘロドトス『歴史』)の中で、この制度に感嘆して書いている。紀元前480年、サラミスの海戦で敗れたクセルクセス王が、その知らせをペルシア本国へ送った場面のあとである。この使者たちほど速く目的地に着くものは、死すべき人間の中に無い。道の全行程にわたって、一日の行程ごとに馬と人が置かれている。雪も雨も暑さも夜の闇も、彼らが定められた行程を全速で走り抜くのを妨げない。最初の者が次の者へ、次の者がまたその次の者へと書簡を渡していく。ギリシア人が松明を手渡して走る競走のように、と。

どれほど速かったのか。ヘロドトスは別の箇所で、王の道をふつうに旅すれば、スーサからサルディスまで90日かかると書いている。駅伝で書簡を送れば、それが1週間ほどに縮まったと推定されている。ただしこの日数は、古代の記録に直接あるものではなく、後世の計算による目安である。それでも、3か月かかる知らせが10日足らずで届くかどうかは、帝国の統治にとって決定的な違いだった。辺境の州で反乱が起きたとき、王がそれを知るまでに3か月かかれば手の打ちようがない。1週間なら、軍を動かせる。
ペルシアの王は、各地を総督(サトラップ)に治めさせたが、総督が力を持ちすぎることを警戒していた。王の命令を伝え、総督の働きを確かめる監察の役人は「王の目」「王の耳」と呼ばれたと、ギリシアの著述家は伝えている。彼らが行き来したのも、この道だった。道と宿駅の網は、帝国を一つにつなぎ止める神経のようなものだった。

同じ仕組みは、その後の大きな帝国で何度も作られた。ローマでは、初代皇帝アウグストゥスが公用の書簡と役人の移動のための駅伝を整えた(クルスス・プブリクス)。街道沿いに馬を替える場所と泊まる場所が置かれたが、使えるのは公用だけで、馬や食料を出す負担は沿道の町や村に重くのしかかった。中国でも秦や漢の時代から駅の制度があり、唐の時代には全国に1600を超える駅があったとされる。文字を持たなかった南米のインカ帝国では、チャスキと呼ばれる走者が、縄の結び目で数を記したキープと口伝えの言葉を、山道で次々と受け渡した。モンゴル帝国はユーラシアを貫く駅の網(ジャムチ)を張りめぐらせ、イスラームの王朝もバリードと呼ばれる駅伝を営んだ。広い土地を治めようとする者は、みな同じ問題にぶつかり、似た答えにたどり着いたのである。
ヘロドトスのこの一文は、2400年あまりのちに、思いがけない場所に現れる。20世紀の初め、ニューヨークのマンハッタンに、新しい中央郵便局の建物が建てられた。1914年に開いたこの建物の正面、列柱の上の長い帯に、英語の銘文が刻まれた。雪も雨も暑さも夜の闇も、これらの使者が定められた巡回を速やかに終えるのを妨げない。設計を担った建築事務所の建築家が、ハーヴァード大学の古典学者による『歴史』の英訳から、この一節を選んだとされる。
この銘文は、アメリカの郵便の公式の標語ではない。アメリカの郵便事業には、公式の標語というものが無い。それでも、この言葉は郵便配達員の心意気を表すものとして広く知られ、事実上の標語のように扱われてきた。古代ペルシアの王の使者についてギリシア人が書いた言葉が、近代の民主国家の郵便配達員の誇りになった。
もっとも、二つは同じものではない。ペルシアの駅伝が運んだのは王の書簡であり、民の手紙ではなかった。誰もが料金を払えば手紙を送れる郵便が生まれるのは、ずっと後のことである。1840年にイギリスで全国一律の安い料金と切手が導入され(ペニー・ブラックと郵便改革)、1874年には国境を越えて手紙を送る仕組みが整えられた(万国郵便連合)。王の命令を運ぶための道は、長い時間をかけて、人々が互いに言葉を送り合う道へと変わっていった。