人物

メッテルニヒ

Klemens von Metternich
AD1773年5月15日 – AD1859年6月11日(享年86)
オーストリア帝国重要度 5

概要

ラインラントの貴族。フランス革命で故郷を失った。オーストリアの外相36年、宰相27年。ナポレオンにマリー・ルイーゼを嫁がせ、ナポレオンを倒す側に回り、ウィーン会議を仕切った。正統主義と勢力均衡。「私はヨーロッパを統治した。ときにはヨーロッパのために」。1848年、ウィーンの群衆に追われて、洗濯物の籠に隠れてロンドンへ逃げた。

関わったできごと(3)

ウィーン会議1814年 · 仕切ったカールスバート決議AD1819年9月20日 · 課した1848年革命1848年 · 逃げた

本文

クレメンス・フォン・メッテルニヒは1773年5月15日、ライン川とモーゼル川が合流するコブレンツに生まれた。家は神聖ローマ帝国の伯爵家で、父はオーストリアに仕える外交官だった。ストラスブールとマインツの大学で学んでいたころ、フランス革命が起きた。ストラスブールでは、革命派の群衆が市庁舎を襲うのを目の当たりにしている。1794年、フランスの革命軍がライン左岸を占領し、一家は領地を失ってウィーンに逃れた。革命への嫌悪は、このとき彼の身に刻まれた。

会議体制の設計者、メッテルニヒ公。1821年から1848年の革命までオーストリア帝国の宰相(ローレンス画、1815年)
会議体制の設計者、メッテルニヒ公。1821年から1848年の革命までオーストリア帝国の宰相(ローレンス画、1815年)Wikimedia Commons Thomas Lawrence · Public domain

1795年、メッテルニヒはマリア・テレジアの宰相カウニッツの孫娘エレオノーレと結婚し、ウィーンの宮廷社会に足場を得た。ドレスデン、ベルリンの公使を経て、1806年、駐仏大使としてパリに赴いた。そこで彼はナポレオン・ボナパルトを間近で観察し、その力と弱点を見極めようとした。1809年、オーストリアがナポレオンに大敗すると、36歳で外相に任じられた。

外相として最初に打った手は、敵との婚姻だった。1810年、皇帝フランツ1世の娘マリー・ルイーズをナポレオンに嫁がせ、時間を稼いだのである。1812年のナポレオンのロシア遠征にもオーストリアは小さな軍を出して同盟国としてつき合った。だがナポレオンがロシアで大軍を失うと、メッテルニヒは慎重に中立へ、さらに仲介者へと立場を移した。1813年6月、ドレスデンでナポレオンと長時間会談したとき、ナポレオンは怒りのあまり帽子を床に投げつけたと伝えられる。メッテルニヒは後に、そのときナポレオンはもう負けていると確信した、と回想している。8月、オーストリアは対仏同盟に加わり、10月のライプツィヒの戦いでナポレオンは敗れた。この功でメッテルニヒは侯爵となった。

ナポレオンのロシア遠征に関わる図版:IV corpo durante la campagna di Russia
ナポレオンのロシア遠征Wikimedia Commons Albrecht Adam · Public domain

1814年9月から翌年6月まで、ウィーン会議がウィーンで開かれた。メッテルニヒはその議長を務めた。各国の君主と外交官が集まり、夜ごと舞踏会が開かれたため、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたが、その裏で戦後のヨーロッパの形が決められていった。原則とされたのは、革命前の正統な王家を元に戻す正統主義と、どの国も他を圧倒できないようにする勢力均衡である。オーストリアは北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを得て、新しく作られたドイツ連邦の議長国となった。会議では、敗れたフランスの外相タレーランが巧みに立ち回り、ポーランドとザクセンをめぐってロシア・プロイセンと英墺が対立すると、フランスは英墺の側について発言力を取り戻した。メッテルニヒの狙いは、フランスを罰することではなく、ヨーロッパの大国の一つとして秩序に戻すことにあった。ナポレオンがエルバ島を脱出して戻った百日天下の間も会議は続き、ワーテルローの戦いの直前に最終議定書が調印された。会議の後、ヨーロッパではほぼ百年にわたって、すべての大国を巻き込む戦争は起きなかった。

それからの30年あまりは、「メッテルニヒ体制」と呼ばれる。大国が会議を開いて協調し、どこかで革命が起きれば力で抑える。1819年、ドイツの学生運動の中で保守派の劇作家が暗殺されると、メッテルニヒはカールスバート決議を主導し、大学の監視と出版の検閲を強めた。1820年代には、イタリアやスペインで起きた立憲革命を、トロッパウ、ライバッハ、ヴェローナと続けて開いた会議を通じて、オーストリアやフランスの軍に鎮圧させた。秘密警察と密偵の網が帝国中に張りめぐらされた。1821年、彼は宮廷宰相の称号を得る。

だが時代の流れを止めきることはできなかった。ギリシア独立戦争は、列強の同情を集めて1830年に認められた。同じ年、フランスでは七月革命が起き、ベルギーはオランダから独立した。国内では、1835年に皇帝フランツが死んだ後、病弱な皇帝フェルディナントのもとで政治が停滞し、メッテルニヒは他の重臣と対立して思うように動けなくなった。ときにヨーロッパを統治したことはあるが、オーストリアを統治したことはない、と彼が語ったと伝えられるのは、この晩年の苦い実感である。

七月革命に関わる図版:La Liberté guidant le peuple - Eugène Delacroix - Musée du Louvre Peintures RF 129 - après restauration 2024
七月革命Wikimedia Commons Eugène Delacroix · Public domain

1848年、パリで二月革命が起きると、1848年革命の波はたちまちウィーンにも及んだ。3月13日、学生と市民が議会の建物を取り囲み、メッテルニヒの退陣を求めた。宮廷は彼を見捨て、その夜、74歳の宰相は辞任した。洗濯物の籠に隠れて逃げたという話も伝わるが、実際には馬車で密かにウィーンを離れ、各地を経てロンドンへ亡命した。ロンドンでは、若いディズレーリらと交わったという。のちにブリュッセルにも住んだ。

1851年、革命が鎮まるとウィーンに戻り、若い皇帝フランツ・ヨーゼフの相談役となった。1859年6月11日、86歳で死んだ。そのわずか1週間前、オーストリア軍は北イタリアのマジェンタでフランスとサルデーニャの軍に敗れていた。彼が築いた秩序は、まさに崩れ始めていた。

ウィーン会議(メッテルニヒは椅子の右に立つ左から7番目の人物)
ウィーン会議(メッテルニヒは椅子の右に立つ左から7番目の人物)Wikimedia Commons After Jean-Baptiste Isabey · Public domain

メッテルニヒは長く、自由と民族の運動を押しつぶした反動の象徴とされてきた。一方で、革命と戦争の時代のあとに、大国の協調によって長い平和を作った外交家として評価する見方もある。20世紀、若いころのヘンリー・キッシンジャーはウィーン体制を博士論文の主題とし、『回復された世界平和』として出版した。核の時代に大国間の均衡を考えたキッシンジャーにとって、メッテルニヒは手本の一人だった。

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