← 地図で見る
Event / できごと

アロー戦争(第二次アヘン戦争)

Second Opium War
AD1856年10月8日 – AD1860年10月24日
期間を持つできごと重要度 4
ロシア帝国大英帝国清Turanマラーター同盟中央アジアの諸ハン国スペイン帝国イギリス東インド会社ラタナコーシン朝(シャム)パプアの人びとアフガニスタンビルマ日本マラヤ安南朝鮮王朝Assamフィリピンカンボジアオランダ領東インドネパールアイヌモシリOudhマイソール藩王国アラカンセイロンAD1856年10月8日広州
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1856年10月8日の版図を描いています(26勢力)。

概要

広州で清の役人が、イギリス船籍を名乗る小船アロー号を臨検して乗組員を捕らえた。イギリスはこれを口実に、宣教師の殺害を理由にしたフランスと組んで出兵する。4年にわたる戦いの末、英仏軍は北京に入り、離宮の円明園を略奪して焼いた。北京条約で清は天津を開き、九竜半島の南端を割譲し、外国の使節が北京に住むことを認めた。

場所

広州
23.13°N 113.26°E · 中国・広東省

本文

1842年の南京条約で、清は五つの港を開いた。だがイギリスが期待したほど貿易は伸びず、広州では外国人が城内に入ることを拒む動きが続いた。イギリスは、もっと多くの港と、北京に使節を置く権利を求める機会を探していた。

1856年10月、広州の役人が、海賊の疑いのある中国人を捕らえるため、アロー号という小船を臨検した。船はかつて香港で登録され、イギリスの旗を掲げていたと主張した。登録の期限はすでに切れていたとも言われるが、イギリスはこれを国旗への侮辱として広州を砲撃した。フランスも、広西で宣教師が処刑された事件を理由に加わった。

英仏軍は1857年に広州を占領し、翌年には北上して天津に迫った。1858年の天津条約で清は大幅な譲歩を約束したが、翌年、批准のために来た英仏の使節を大沽の砲台が撃退し、戦いは再開した。1860年、英仏軍は北京に入り、皇帝の離宮である円明園を略奪したうえで焼き払った。皇帝の咸豊帝は熱河に逃れていた。

北京条約で、清は天津を開港し、九竜半島の南端をイギリスに割譲し、キリスト教の布教の自由と、外国の使節が北京に常駐することを認めた。講和を仲立ちしたロシアは、その見返りとして沿海州を手に入れ、ウラジオストクを築く。清はこの敗北のあと、西洋の技術を取り入れる洋務運動に向かった。

動画(1)

167 アロー戦争と北京条約 世界史20話プロジェクト第17話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第167講「アロー戦争と北京条約」

同じ時代のできごと

ザンジバルの丁子と奴隷市場AD1840年(オマーンのスルタンが遷都)グレート・トレックAD1836年マーシュ試験AD1836年エドモンソン式乗車券AD1837年大塩平八郎の乱AD1837年ピットマン式速記AD1837年バベッジの階差機関と解析機関AD1837年ディケンズ『オリヴァー・トゥイスト』AD1838年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1856年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります
近代のできごと一覧 →人物一覧 →
歴史データベースとは? →