概要
広州で清の役人が、イギリス船籍を名乗る小船アロー号を臨検して乗組員を捕らえた。イギリスはこれを口実に、宣教師の殺害を理由にしたフランスと組んで出兵する。4年にわたる戦いの末、英仏軍は北京に入り、離宮の円明園を略奪して焼いた。北京条約で清は天津を開き、九竜半島の南端を割譲し、外国の使節が北京に住むことを認めた。
場所
広州
23.13°N 113.26°E · 中国・広東省
23.13°N 113.26°E · 中国・広東省
本文
1842年の南京条約で、清は五つの港を開いた。だがイギリスが期待したほど貿易は伸びず、広州では外国人が城内に入ることを拒む動きが続いた。イギリスは、もっと多くの港と、北京に使節を置く権利を求める機会を探していた。
1856年10月、広州の役人が、海賊の疑いのある中国人を捕らえるため、アロー号という小船を臨検した。船はかつて香港で登録され、イギリスの旗を掲げていたと主張した。登録の期限はすでに切れていたとも言われるが、イギリスはこれを国旗への侮辱として広州を砲撃した。フランスも、広西で宣教師が処刑された事件を理由に加わった。
英仏軍は1857年に広州を占領し、翌年には北上して天津に迫った。1858年の天津条約で清は大幅な譲歩を約束したが、翌年、批准のために来た英仏の使節を大沽の砲台が撃退し、戦いは再開した。1860年、英仏軍は北京に入り、皇帝の離宮である円明園を略奪したうえで焼き払った。皇帝の咸豊帝は熱河に逃れていた。
北京条約で、清は天津を開港し、九竜半島の南端をイギリスに割譲し、キリスト教の布教の自由と、外国の使節が北京に常駐することを認めた。講和を仲立ちしたロシアは、その見返りとして沿海州を手に入れ、ウラジオストクを築く。清はこの敗北のあと、西洋の技術を取り入れる洋務運動に向かった。