グスタフ2世アドルフ
概要
軽い大砲と横に薄い隊列で、三十年戦争の戦い方を変えた。「北方の獅子」と呼ばれ、リュッツェンの霧の中で死ぬ。
所属
スウェーデン帝国関わったできごと(1)
リュッツェンの戦いAD1632年11月16日 · 戦死本文
グスタフ2世アドルフは1594年12月、ストックホルムに生まれた。祖父は、デンマークの支配からスウェーデンを独立させたヴァーサ朝の創始者グスタフ1世である。父のカール9世は、カトリックに改宗していた甥のポーランド王ジグムントからスウェーデンの王位を奪った人物で、このため王家はポーランドの王家と、王位の正統をめぐって争い続けていた。少年グスタフは、ラテン語やドイツ語をはじめ多くの言葉を学び、歴史と兵法を好んだ。10代の半ばから、父に従って戦場にも出ている。

1611年、父が死に、17歳で位を継いだ。継いだのは王冠だけではなかった。南のデンマークとは戦争の最中で、東ではロシアの混乱に乗じて兵を出しており、ポーランドとは王位をめぐって対立していた。三つの戦争を抱えたうえ、国は貧しく、人口は百数十万にすぎなかった。
グスタフは一つずつ片づけていった。デンマークとは1613年に講和したが、奪われた西海岸の要の城を取り戻すために、巨額の身代金を払わなければならなかった。ロシアとは1617年に講和し、フィンランド湾の奥の土地を得て、ロシアをバルト海から締め出した。ポーランドとの戦いは長く続き、1621年にはバルト海の大きな港町リガを奪った。

その間に、グスタフは、のちに長く宰相を務めるアクセル・オクセンシェルナとともに国の仕組みを作り直した。役所を整え、裁判所を置き、学校と大学を支えた。銅山から上がる収入を戦費の柱にした。そして、農民の中から兵を選んで集める徴兵の制度を整え、王に直属する常備の軍を育てた。当時のヨーロッパの軍の多くは、金で雇われ、給料が滞れば略奪する傭兵の集まりだった。
戦場での工夫も重ねた。それまでの主流は、長い槍を持つ兵を何十列もの厚い四角の陣に組み、その周りに銃兵を配するやり方だった。グスタフは隊列を6列ほどに薄くして横に広げ、銃兵が列ごとに一斉に撃つことで、火力を前に集めた。大砲は軽くして、馬一頭でも引けるようにし、歩兵の連隊ごとに持たせて一緒に動かした。騎兵には、馬上で拳銃を撃って下がる戦い方をやめさせ、剣を抜いて敵に突っ込ませた。兵には給料をきちんと払い、規律を厳しくし、毎日の礼拝を欠かさせなかった。ポーランドの戦場は、この新しい軍を鍛える場となった。
そのころ、ドイツでは1618年に始まった三十年戦争が続いていた。カトリックの神聖ローマ皇帝の軍は、将軍ティリーやヴァレンシュタインのもとでプロテスタントの諸侯を次々に破り、北ドイツのバルト海の沿岸にまで達した。皇帝の軍がバルト海に艦隊を持てば、スウェーデンの安全が脅かされる。1630年夏、グスタフは1万数千の兵を率いて、ドイツ北部のポメラニアに上陸した。同じプロテスタントを救うためであり、同時にバルト海の支配を守るためだった。カトリックの国でありながら皇帝の力を嫌うフランスの宰相リシュリューが、戦費を出した。

ドイツの諸侯の多くは、はじめ、この北の王を警戒して味方につかなかった。1631年5月、プロテスタントの町マクデブルクがティリーの軍に攻め落とされ、略奪と火災で住民の大半が死んだ。救援が間に合わなかったグスタフは非難されたが、この惨事がかえってプロテスタントの諸侯を動かした。9月、ザクセンと手を結んだグスタフは、ライプツィヒの北のブライテンフェルトでティリーの軍と戦った。ザクセン軍は崩れて逃げたが、スウェーデン軍は薄い隊列のまま向きを変え、軽い大砲と斉射で、それまで不敗を誇った皇帝側の軍を打ち破った。
勝利の知らせはヨーロッパを駆けめぐり、グスタフは北方の獅子と呼ばれた。北から現れる獅子がプロテスタントを救う、という古い予言になぞらえたものである。翌年の春、グスタフはドイツ南部に進み、川を渡る戦いでティリーに致命傷を負わせ、カトリックの中心バイエルンの都ミュンヘンに入った。だが、皇帝が再び呼び戻したヴァレンシュタインは、正面からの決戦を避けて守りを固め、グスタフはニュルンベルクの近くで攻めあぐねた。

1632年11月16日、ライプツィヒの南西のリュッツェンで、両軍はついにぶつかった(リュッツェンの戦い)。朝から濃い霧が立ちこめ、戦場は煙と霧でほとんど見えなかった。昼過ぎ、グスタフは騎兵を率いて突撃したが、霧の中で味方とはぐれ、腕を撃たれ、続いて背中と頭を撃たれて落馬した。37歳だった。王の馬が主人を乗せずに戻ってきたのを見て、兵たちは王の死を知ったという。怒ったスウェーデン軍は戦い続け、日暮れまでにヴァレンシュタインを退かせたが、王を失った勝利だった。
跡を継いだのは、6歳の一人娘クリスティーナだった。政治はオクセンシェルナが担い、スウェーデンはその後も戦い続けた。1648年のウェストファリア条約で、スウェーデンはドイツのバルト海沿岸の領土を得て、北ヨーロッパの大国となる。クリスティーナは成長すると学問を愛し、哲学者デカルトを宮廷に招いたが、のちに位を退いてカトリックに改め、ローマで暮らした。父がプロテスタントのために戦って死んだことを思えば、皮肉な結末だった。

グスタフ・アドルフが作り直した軍のやり方は、薄い隊列と火力、軽い大砲、常備の軍という形で、その後のヨーロッパの各国に広く取り入れられた。後世のナポレオンは、彼を歴史上の偉大な将軍の一人に数えている。スウェーデンでは、命日にあたる日に、王の横顔をかたどった飾りを載せた菓子を食べる習わしが今も残っている。