できごと

メルカトルの図法

Mercator's projection
AD1569年
重要度 5
スペイン帝国オスマン帝国ポルトガル帝国ロシア帝国ノガイ・オルダサファヴィー朝ポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェースウェーデン神聖ローマ帝国フランス王国サーミスペインWatassid MoroccoEngland and Irelandアストラハン・ハン国クリム・ハン国ヴェネツィア共和国スコットランドHabsburg NetherlandsNaplesプロイセンAD1569年デュースブルク
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1569年の版図を描いています(23勢力)。

概要

球を平面にすると、必ずどこかが歪む。メルカトルは、角度を正しく保つほうを選んだ。緯線を等間隔にせず、高緯度ほど引き伸ばす。すると、地図の上で直線を引けば、それが「羅針盤の針を一定に保って進む針路」(等角航路)になる。船乗りにとって、これ以上ないものだった。代償として、面積が壊れた。グリーンランドがアフリカと同じ大きさに見える。この歪みは、後に政治の議論になった。

場所

デュースブルク
51.43°N 6.76°E · ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州

関わった人(1)

ゲラルドゥス・メルカトルAD1512年3月5日–AD1594年12月2日 · 考案した

本文

地球は球で、地図は平らな紙である。オレンジの皮を破らずに机の上へ平らに広げることができないように、球の表面を平面に写せば、必ずどこかが歪む。角度を正しく保つか、面積を正しく保つか、距離を正しく保つか。すべてを同時に満たす地図は作れないことが、のちに数学で証明されている。地図を作る者は、何を守って何を諦めるかを選ばなければならない。

インド航路を開いたヴァスコ・ダ・ガマの航海から七十年、外洋を長く渡る船は増える一方だった。十六世紀の船乗りには、切実な困りごとがあった。羅針盤の針を一定の方角に保って進むと、その航跡は地球の上で、経線と常に同じ角度で交わる線になる。この線は、極へ近づくほど渦を巻くように曲がっていく。等角航路と呼ばれるもので、二点間の最短の道ではないが、船の上で実際にたどれる最も簡単な針路だった。ところが当時の海図の上では、この航路は曲線になる。海図の上で出発地と目的地を定規で結び、その方位に舵を取っても、目的地には着かない。距離が長くなるほど、ずれは大きくなった。

1569年にメルカトルが作成した地図
1569年にメルカトルが作成した地図Wikimedia Commons Gerardus Mercator · Public domain

この問題に答えを出したのが、フランドル出身の地図製作者ゲラルドゥス・メルカトル(1512〜1594年)である。1569年、彼はドイツ西部の町デュースブルクで、新しい世界図を刊行した。題は『航海者の使用のために正しく改められた、新しく増補された地球の図』。十八枚の紙に刷られ、貼り合わせると縦およそ一メートル二十センチ、横およそ二メートルになる大きな図だった。

メルカトルがしたことは、こうである。実際の地球では、経線は北極と南極で一点に集まる。彼はその経線を、すべて等間隔の平行な直線にした。そうすると、赤道から離れるほど、東西の方向が実際より引き伸ばされることになる。緯度六十度では、本当の長さの二倍に広がる。そこで彼は、南北の方向も、同じ緯度で同じ割合だけ引き伸ばした。緯線と緯線の間隔を、赤道から離れるほど広げていったのである。

メルカトルの1569年の世界図『航海者のための正しく改良された地球の新図』(緯度66°S〜80°N)
メルカトルの1569年の世界図『航海者のための正しく改良された地球の新図』(緯度66°S〜80°N)Wikimedia Commons Gerardus Mercator · Public domain

こうすると、地図の上のどの点でも、ごく小さな範囲を見れば、形が実際と同じになる。角度が正しく保たれる。角度が正しければ、経線と常に同じ角度で交わる等角航路は、地図の上でまっすぐな線になる。船乗りは海図の上で出発地と目的地を定規で結び、その線が経線となす角度を分度器で測れば、それがそのまま取るべき羅針盤の方位になる。航海のための図として、これ以上のものはなかった。

代償は面積だった。緯度六十度では縦も横も二倍になるから、面積は四倍に見える。緯度八十度では縦横がおよそ六倍、面積は三十倍を超える。極は無限に遠くへ飛んでいくので、描くことができない。グリーンランドは、地図の上ではアフリカと同じくらいの大きさに見えるが、実際の面積はアフリカの十四分の一ほどしかない。

メルカトルの1541年の地球儀に描かれたルンブライン
メルカトルの1541年の地球儀に描かれたルンブラインWikimedia Commons Gerhard Mercator · Public domain

メルカトル自身は、緯線の間隔をどう決めたのかを、数式では説明していない。作図と計算の表を工夫して求めたらしい。その理論をはっきりさせたのは、イギリスの数学者エドワード・ライトで、1599年の著書で、緯線の間隔を細かな計算の積み重ねで正確に求める表を示した。微分や積分がまだ生まれていない時代に、彼は事実上、積分にあたる計算をしていたことになる。

ところが、船乗りたちはすぐにはこの図を使わなかった。当時の航海では、太陽や北極星の高さから緯度は測れても、東西の位置である経度を正確に知る方法がなかった。自分が地図のどこにいるのか分からなければ、正しい方位の線を引いても役に立たない。メルカトルの図法が海図の標準として本領を発揮するのは、十八世紀に経度を測る方法が見つかってからのことである(経度法)。太平洋の島々を正確に海図に落としたクックの太平洋航海は、その時代の成果だった。

World Scale from DMA Series 1150 map
Wikimedia Commons DMA · Public domain

メルカトルの生涯も平坦ではなかった。フランドルの貧しい家に生まれ、ルーヴァンの大学で学んだのち、地球儀や天球儀、測量の器具を作って身を立てた。マルティン・ルターに始まる宗教改革の波がフランドルにも及んでいた1544年、彼はプロテスタントに近い異端の嫌疑で捕らえられ、七か月ほど獄につながれた。同じときに捕らえられた人々の中には、火あぶりや生き埋めの刑に処された者もいた。釈放されたメルカトルは、やがて宗教に寛容なデュースブルクへ移り住み、そこで残りの生涯の仕事をした。

彼は晩年、世界の地図をまとめた本を企て、それに「アトラス」という名を付けた。天空を担ぐ巨人ではなく、伝説上の北アフリカ、マウレタニアの王で、天文学に通じた賢者アトラスにちなんだと序文で書いている。本が出たのは彼の死の翌年だったが、この名は地図帳を指す普通の言葉になって世界に広まった。

ゲラルドゥス・メルカトルの肖像
ゲラルドゥス・メルカトルWikimedia Commons Public domain

十九世紀から二十世紀にかけて、メルカトル図法の世界図は、航海のためだけでなく、学校の教室の壁や教科書にも掛けられた。そこではヨーロッパと北アメリカが大きく、赤道に近いアフリカや南アメリカ、南アジアが小さく見える。何世代もの子どもが、その世界像を目に焼きつけて育った。

1973年、ドイツの歴史家アルノ・ペータースが、面積を正しく保つ世界図を「ペータース図法」として発表し、メルカトルの図はヨーロッパ中心の植民地主義の世界像だと強く批判した。彼の図は、国連の機関や開発援助の団体に採用されて広まった。ただし、この図法は十九世紀にスコットランドの牧師ジェームズ・ゴールが発表していたものとほとんど同じだった。地図学者たちは、ペータースの数学的な主張の誤りと、彼の図でも大陸が縦に引き伸ばされて形が歪むことを指摘した。1989年、アメリカの主な地理学の団体が連名で、長方形の世界図はどちらも、世界全体を見せる教育には使うべきでないとする声明を出している。

それでも、いま世界で最も多くの人が目にしている地図は、やはりメルカトルの子孫である。インターネットの地図の多くが、メルカトル図法を少し簡略にした方式を使っている。町の中の一角まで拡大して見るとき、角度が正しく、交差点や建物の形が崩れないことが何より役に立つからである。四百五十年前に船乗りのために選ばれた「角度を守り、面積を諦める」という判断は、いまは道を探す人々の手のひらの上で生きている。

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