バンドン会議

概要
アジア・アフリカ29か国が集まり、どちらの陣営にも付かないと宣言した。第三世界という言葉が力を持つ。
場所
-6.92°N 107.62°E · インドネシア
関わった人(4)
ジャワハルラール・ネルーAD1889年11月14日–AD1964年5月27日 · 主導周恩来AD1898年3月5日–AD1976年1月8日 · 中国側ガマール・アブドゥル=ナセルAD1918年1月15日–AD1970年9月28日 · エジプト側スカルノAD1901年6月6日–AD1970年6月21日 · 主催本文
第二次世界大戦のあと、アジアの植民地が次々に独立した。インド、パキスタン、ビルマ、セイロン、そしてインドネシア(インドネシア独立宣言)。だが、生まれたばかりの国々が出ていった世界は、アメリカとソ連が二つに割れて睨み合う冷戦のさなかだった。朝鮮半島では戦争が起き(朝鮮戦争)、インドシナではフランスが敗れたばかりだった(ディエンビエンフーの戦い)。どちらかの陣営に付けと迫られることへの反発が、アジアの新しい国々に共通していた。
1954年、インドネシア、インド、パキスタン、ビルマ、セイロンの5か国の首相がセイロンのコロンボに集まり、アジアとアフリカの国々の会議を開くことを決めた。会場には、インドネシアのジャワ島の高原の町バンドンが選ばれた。

1955年4月18日、会議が開かれた。集まったのは29か国。アジアの国々に、エジプト、エチオピア、リベリア、そして独立を目前にしたゴールド・コースト(のちのガーナ)などのアフリカの国々が加わった。これらの国の人口を合わせると、当時の世界の人口の半分を超えた。日本も、独立を回復してから初めての大きな国際会議として参加した。
開会の演説をしたのは、主催国のスカルノだった。スカルノは、これは人類の歴史で最初の、有色の人々による大陸を越えた会議だ、と述べた。植民地の支配は形を変えて続いている、と警告し、アジアとアフリカの国々が団結すれば、世界の平和のために力を持てる、と訴えた。

参加国の立場はばらばらだった。インドのジャワハルラール・ネルーは、どの陣営とも同盟を結ばない立場を唱えた。中国からは首相の周恩来が来た。前年のジュネーヴ会議に続いて、中華人民共和国が西側の国々もいる国際会議に出る、数少ない機会だった。一方で、フィリピン、タイ、トルコ、パキスタンのように、アメリカと軍事同盟を結んでいる国もあった。セイロンの首相は、ソ連が東ヨーロッパを支配しているのも新しい植民地主義ではないか、と問い、会議は紛糾した。
周恩来は演説で、共産主義の宣伝をしに来たのではない、と述べ、違いはそのままに置いて、共通するところを求めよう、と呼びかけた。中国が隣の国々に、自分たちは脅威ではないと示そうとした場面だった。エジプトのガマール・アブドゥル=ナセルは、この会議で国際的な指導者として名を知られるようになり、翌年スエズ運河を国のものにする(スエズ危機)。

会議は最後に、十の原則をまとめた共同の声明を出した。基本的人権と国連憲章の尊重、すべての国の主権と領土の保全、すべての人種と国家の平等、内政への不干渉、武力による威嚇や侵略をしないこと、紛争を平和的に解決すること、などである。前の年にインドと中国が確かめた平和五原則を、さらに広げたものだった。植民地主義は、どんな形のものでも終わらせるべきだ、という考えも声明に盛り込まれた。
この会議で、どちらの陣営にも属さないという立場が形になった。6年後の1961年、ユーゴスラヴィアのベオグラードで、非同盟諸国の首脳会議が開かれる。ネルー、ナセル、スカルノ、そしてユーゴスラヴィアのティトーらが中心になった。「第三世界」という言葉も、このころから力を持った。フランス革命のときの、王侯でも聖職者でもない「第三身分」になぞらえて生まれた言葉で、先進国でも共産圏でもない、第三の道を選ぶ国々を指した。

だが、会議の精神は長くは続かなかった。1962年にはインドと中国が国境で戦った。スカルノは1965年の政変で力を失った(インドネシアの九・三〇事件)。それでも、1960年のアフリカの年を迎えるアフリカの国々にとって、バンドンは、植民地だった国々が自分たちだけで集まり、世界に向けて声を上げた最初の場として記憶された。