できごと

本初子午線会議

International Meridian Conference
AD1884年10月1日
重要度 5
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国グリーンランドメキシコスペイン帝国スペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国ニカラグアホンジュラスグアテマラAD1884年10月1日ワシントンD.C.
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1884年10月1日の版図を描いています(12勢力)。

概要

経度をどこから測るか。各国が自国の天文台を基準にしていた。パリ、カディス、フェロー島、リオ、東京。海図が噛み合わない。25か国がワシントンに集まり、グリニッジを本初子午線とすることを決めた(賛成22、反対1=サント・ドミンゴ、棄権2=フランスとブラジル)。理由は科学ではなく、当時の船舶の7割以上がグリニッジ基準の海図を使っていたからである。同時に、グリニッジの真夜中に始まる世界共通の一日を定めたが、時間帯の区分までは決めなかった。フランスは1911年までパリ子午線を使い続けた。

場所

ワシントンD.C.
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国

本文

緯度と経度は、地図の上では同じように並んでいるが、性格がまるで違う。緯度には自然の基準がある。地球の自転が決める赤道と両極である。経度には、それが無い。地球のどの経線も、ほかの経線と区別できない。だから経度ゼロの線は、どこかに人が決めるしかない。

19世紀の後半、各国はそれぞれ自国の天文台を基準にしていた。イギリスはグリニッジ、フランスはパリ、アメリカはワシントンの海軍天文台、スペインはカディス、ロシアはプルコヴォ、ブラジルはリオデジャネイロ。日本も東京の天文台を基準に使っていた。古くからの慣行で、カナリア諸島の西端のフェロー島を「世界の西の端」として基準にする地図もあった。ある港の経度が、使う海図によって違う数字になる。航海の上で厄介なのはもちろん、19世紀後半には新しい事情が加わった。大西洋横断電信ケーブルをはじめとする電信網が世界を結び、各地の時刻を合わせる必要が出てきたのである。鉄道も、国ごとに標準時を決め始めていた(鉄道と標準時)。

大西洋横断電信ケーブルに関わる図版:Atlantic cable Map
大西洋横断電信ケーブルWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

経度の問題は、もともと海の上の位置の問題だった。18世紀には経度法が懸賞金をかけ、ハリソンの航海時計のような精密な航海時計が、船の上で経度を求める道を開いた。航海時計で経度を測るとは、基準の地点の時刻と、いまいる場所の時刻の差を測ることである。基準の地点をどこに置くかは、時刻の基準をどこに置くかと同じ問いだった。

この問題を世界の時刻の問題として説いて回った一人が、カナダ太平洋鉄道の技師サンドフォード・フレミングである。彼は1876年、アイルランドの駅で時刻表の午前と午後の取り違えのために列車に乗り損ね、長く待たされたことがきっかけだったと後に語っている。この逸話には脚色が入っている可能性がある。フレミングは1879年ごろから、地球を経度十五度ずつ二十四の帯に分け、帯ごとに一時間ずつずらした時刻を使う案を発表した。彼の初めの案では、基準の子午線をグリニッジの反対側、太平洋の上に置くことになっていた。どの国も自分の首都を世界の中心だと言わずに済むように、という配慮である。

アメリカ合衆国内の主要な町の地方時
アメリカ合衆国内の主要な町の地方時Wikimedia Commons Dinsmore · Public domain

1884年10月1日、アメリカ大統領チェスター・アーサーの招きで、ワシントンに国際子午線会議が開かれた。集まったのは25か国、41人の代表である。議題は、単一の本初子午線を定めるか、それをどこに置くか、そして世界共通の一日をどう数えるか、だった。単一の本初子午線を採るのが望ましいという点では、全員が一致した。問題は場所である。

10月13日、グリニッジ天文台の子午環を通る子午線を本初子午線とする決議が、賛成22、反対1、棄権2で採択された。反対したのはサント・ドミンゴ(いまのドミニカ共和国)、棄権したのはフランスとブラジルである。グリニッジが選ばれた理由は、科学ではなかった。会議では、当時の世界の商船のトン数のおよそ七割が、グリニッジを基準にしたイギリスの海図を使っているという数字が示された。アメリカも、前年の1883年には鉄道の時間帯をグリニッジ基準で決めていた。会議がしたのは、すでにでき上がっていた事実上の標準に、国際的な承認を与えることだった。

フランスの代表は、どの国にも属さない中立の子午線を主張した。ベーリング海峡やアゾレス諸島を通る線である。その背後には取引の思惑もあった。イギリスとアメリカがメートル法(メートル法の制定)を採るなら、フランスもグリニッジを受け入れてよい、という含みである。英米は応じなかった。フランスは棄権し、その後もパリ子午線を使い続ける。1911年にようやく時刻の基準を改めたときも、法律は「パリ平均時より9分21秒遅れた時刻」という書き方をした。グリニッジの名を出さずに、グリニッジの時刻を採ったのである。

会議はほかに、世界共通の一日はグリニッジの真夜中から始まること、経度はグリニッジから東西にそれぞれ百八十度まで測ることを決議した。それまで天文学者は、夜の観測が日付をまたがないよう、一日を正午から数えていた。この慣行が改められ、天文学の暦が真夜中始まりに切り替わるのは1925年である。

意外なことに、この会議は時間帯(タイムゾーン)の区分そのものは決めていない。各国が国内でどう時刻を運用するかは、それぞれに任された。だから、いまの時間帯の地図は、各国が後から別々に決めた結果の寄せ集めである。中国は東西に五つの帯ほどの幅があるのに、全土で北京の時刻一つを使う。インドとスリランカは三十分、ネパールは四十五分のずれを使う。フランスとスペインは、地理的にはグリニッジの時刻が合う位置にあるのに、第二次世界大戦中の1940年にドイツと同じ中央ヨーロッパ時間に合わせ、そのまま戻していない。スペインの夕食の遅さは、この一時間のずれも一因だと言われる。日付変更線も国際条約で引かれたものではなく、各国が自分の領土をどちら側に置くかを決めた結果の、折れ曲がった線である。1995年にはキリバスが国内を分けていた線を東へ大きく動かし、2011年にはサモアが線の西側へ移って、その年の12月30日が無くなった。

グリニッジの旧王立天文台の中庭には、経度ゼロを示す真鍮の線が埋め込まれていて、観光客がまたいで写真を撮る。ただ、衛星測位で測ると、いまの経度ゼロの線はそこから東へ百メートルほどずれている。19世紀の観測はその場の重力の向きを基準にしていたが、いまの測地系は地球の重心を基準にしているためである。天文台の機能は20世紀の半ばにサセックスのハーストモンスー城へ移り、王立グリニッジ天文台という組織も1998年に閉じられた。世界の時刻の基準は原子時計と地球の自転の観測に移り、グリニッジの名だけがラジオの時報や「グリニッジ標準時」という言葉の中に残っている。

それでも、この会議が決めたことの骨組みは、いまも世界中の地図と時計の中で生きている。経度をどこから測るかに自然の答えは無かった。答えを決めたのは、海図の売れ行きと、すでに走っていた鉄道と、会議の票だった。

同じ時代のできごと

第一回ジュネーヴ条約AD1864年8月22日パラグアイ戦争AD1864年信用組合AD1864年天狗党の乱AD1864年(元治元年)禁門の変1864年8月20日(元治元年7月19日)四国艦隊下関砲撃事件1864年9月5日(元治元年8月5日)池田屋事件1864年7月8日(元治元年6月5日)第一インターナショナルAD1864年9月28日
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1884年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →