できごと

ペロン政権の成立

Perón comes to power
AD1946年
重要度 3
ブラジルアルゼンチンペルーボリビアチリパラグアイウルグアイAD1946年ブエノスアイレス
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1946年の版図を描いています(7勢力)。

概要

労働者の支持で政権に就き、南米のポピュリズムの原型になった。いまも評価が割れる。

場所

ブエノスアイレス
-34.60°N -58.38°E · アルゼンチン

本文

20世紀の前半のアルゼンチンは、牛肉と小麦を輸出して豊かになった国だった。ブエノスアイレスには、イタリアやスペインから渡ってきた移民があふれ、ヨーロッパの都市のような街並みが広がった。だが、富は大土地所有者と輸出業者に集まり、都市の労働者や地方から出てきた人々は、低い賃金と不安定な暮らしに置かれていた。世界恐慌で輸出が落ち込むと、軍が政治に介入し、選挙の不正が続く「恥ずべき10年」と呼ばれる時代になった。

1943年、軍の将校たちがクーデターで政権を握った。そのなかにいたのが、陸軍大佐のフアン・ドミンゴ・ペロンだった。ペロンは、自ら望んで、地味な役職と見られていた労働局の長に就いた。そこから彼は、労働組合と直接つながっていく。賃上げを後押しし、労働者に年金や有給休暇、解雇の補償を認めさせ、労使の争いでは労働者の側に立った。それまで政治から締め出されていた人々が、初めて自分たちのために動く政府の顔を見た。ペロンはやがて副大統領と陸軍大臣も兼ねた。

1940年のフアン・ペロン
1940年のフアン・ペロンWikimedia Commons Unknown author Unknown author · CC0

その人気を、軍の同僚たちは警戒した。1945年10月、ペロンは職を追われ、ラプラタ川の島に拘束された。

10月17日、ブエノスアイレス郊外の工場地帯から、労働者たちが続々と大統領府前の五月広場へ向かった。上着も着ない粗末な身なりの人々は、のちに「シャツを着ない者たち」と呼ばれる。広場は数十万の人で埋まり、政府はペロンを釈放せざるをえなかった。夜、ペロンは大統領府のバルコニーから群衆に語りかけた。この日は、いまもペロン主義の記念日になっている。数日後、ペロンは女優のエバ・ドゥアルテと結婚した。

陸軍少尉時代のペロン(1921年)
陸軍少尉時代のペロン(1921年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1946年2月の大統領選挙で、ペロンは過半数の票を得て当選した。アメリカの大使は公然とペロンに反対する運動をしたが、ペロンの側はそれを逆手に取り、アメリカの大使か、ペロンか、を合言葉にした。6月、ペロンは大統領に就任した。

政策は、国有化、社会保障、賃上げ、そして輸入に頼らない工業化だった。中央銀行を国のものにし、イギリス資本の鉄道を買い取り、穀物の輸出を国の機関が一手に扱って、その利益を工業と社会政策に回した。戦争中に貯まった外貨が、それを支えた。労働者の実質賃金は大きく上がり、国民所得のなかで労働者の取り分が増えた。

エデルミロ・ファーレルと内閣閣僚。後列左から3番目がペロン(1944年)
エデルミロ・ファーレルと内閣閣僚。後列左から3番目がペロン(1944年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

妻エビータの役割は大きかった(ペロンとエビータ)。ラジオで「シャツを着ない者たち」に語りかけ、自分の名の財団を通じて、病院や学校、貧しい人々への援助を配った。1947年には女性の参政権が法律で認められ、彼女はその先頭に立った。

ペロンは自分の考えを「正義主義」と呼び、資本主義でも共産主義でもない「第三の立場」を掲げた。労働者を支えにしながら、軍と教会も味方に置こうとし、左とも右とも分類しにくい。反対派の新聞を閉鎖し、大学に介入し、批判する者を投獄するなど、強権的な面も強かった。1949年には憲法を変えて大統領の再選を可能にし、1951年に再選された。

フアン・ペロンとエビータ(エバ・ペロン)
フアン・ペロンとエビータ(エバ・ペロン)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

経済は、初期に成功し、後に行き詰まる。外貨は数年で底をつき、干ばつで輸出が落ち、物価が上がった。1952年、エビータががんで33歳で亡くなる。支えを失ったペロンは、やがてカトリック教会とも対立した。1955年6月には、海軍の飛行機が五月広場を爆撃し、多くの市民が死んだ。9月、軍のクーデターでペロンは追放された。

軍事政権はペロン主義を禁じ、ペロンの名を口にすることさえ取り締まった。それでもペロン主義は消えなかった。労働組合が支持を守り、亡命先のスペインから、ペロンは指示を送り続けた。

1952年5月1日、五月広場での集会に立つペロンとエビータ
1952年5月1日、五月広場での集会に立つペロンとエビータWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

18年後の1973年、ペロンは帰国し、選挙で6割を超える票を得て、3度目の大統領になった。副大統領には三番目の妻イサベルが就いた。だが国はすでに、ペロン主義の左派と右派が銃を向け合う混乱のなかにあった。1974年7月、ペロンは在任中に78歳で亡くなった。後を継いだイサベルの政権は、1976年の軍のクーデターで倒れる。軍事政権は反対派を大量に連れ去って殺し、子を奪われた母たちが五月広場を歩き続けることになる(五月広場の母たち)。その軍事政権も、1982年のフォークランド紛争に敗れて崩れた。

その後もアルゼンチンの政治は、ペロン主義かどうかで分かれている。1990年代に国営企業を次々に民営化したメネム大統領も、2000年代に国家の役割を再び強めたキルチネル夫妻も、ペロン主義の党から出た。正反対の政策を掲げる者が同じ名を名乗れるほど、ペロン主義は一つの政策ではなく、労働者と「普通の人々」の側に立つという一つの帰属の感覚になっている。南米の大衆迎合的な政治、ポピュリズムの原型とされ、その評価はいまも割れている。

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