できごと

ランサーン王国

Lan Xang
AD1353年
重要度 3
元キプチャク汗国チャガタイ汗国チベットヒンドゥーの小王国群デリー・スルタン朝パガン朝シュリーヴィジャヤスコータイ朝ヴィジャヤナガル王国日本ヒンドゥーと仏教の小国群Kashmir and Ladakhクメール帝国高麗大越大越Kediriアユタヤ朝オリッサアイヌモシリチョーラ朝アチェパーンディヤ朝チャンパシンハラ王国AD1353年ルアンパバーン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1353年の版図を描いています(26勢力)。

概要

「百万頭の象の国」という意味になる。メコン中流に350年続いた。海に出ない内陸の国で、上座部仏教と交易路の中継で成り立っていた。分裂した後、シャムとフランスに呑まれる。

場所

ルアンパバーン
19.88°N 102.13°E · ラオス

本文

ランサーンは「百万頭の象」という意味になる。正式には「百万頭の象と白い傘の国」と呼ばれた。象は戦の力であり富のしるしで、白い傘は王権を表す。大げさな名だが、メコン川の中流域に350年あまり続いた、ラオ人の最初の統一王国だった。

建てたのはファー・グムという王子である。伝えられるところでは、祖父の代に一族の争いでムアン・スワ(のちのルアンパバーン)を追われ、クメールの都アンコール(アンコールの隆盛)で育った。クメールの王に気に入られて王女を妻に迎え、その軍の援助を得てメコンを北へ遡り、各地の首長を従えていった。1353年、ムアン・スワで王位に就いたとされる。この経緯は後世の年代記によるもので、細部には伝説も混じる。

ルアンパバーンのホー・カム宮殿
ルアンパバーンのホー・カム宮殿Wikimedia Commons Allie Caulfield · CC BY 2.0

ファー・グムはクメールから僧と経典を招き、上座部仏教を国の柱に据えた。のちにクメールの王から贈られたとされる仏像が、パバーン仏である。高さ1メートルにも満たない金の立像で、王権を守る仏として尊ばれた。都の名ルアンパバーンは、この仏像にちなんで後に付けられたものだ。

ランサーンは海に出られない国だった。北は中国の雲南、東はベトナム、西はラーンナーとアユタヤ(アユタヤ朝の成立)、南はクメールに囲まれ、メコン川が南北を貫いている。王国は、川と山の道を行き交う交易の中継で成り立った。森でとれる安息香(香料になる樹脂)や象牙、漆、金を集めて、周りの国々へ送った。国の形も、強い中央集権というより、各地のムアン(盆地ごとのまとまり)の首長が王に従う緩やかなつながりだった。

ルアンパバーンの眺め(1897年)
ルアンパバーンの眺め(1897年)Wikimedia Commons http://gallica.bnf.fr , French National Library Barthélemy, Pierre de (1870-1940) and Pavie, Auguste (1847-1925) Cupet, · Public domain

16世紀に、ランサーンは大きな変化を迎える。セーターティラート王は、西隣のラーンナーの王位も一時兼ねた人で、ラーンナーから持ち帰ったエメラルド仏を新しい守り仏とした。1560年ごろ、王は都をメコンのさらに下流のヴィエンチャンへ移した。西から迫るビルマのタウングー朝から距離をとり、平野の広がる南の米どころと交易の道に近づくためだった。王はヴィエンチャンに、いまもラオスの象徴とされる黄金の仏塔タートルアンを建てた。古い都に残したパバーン仏にちなんで、もとの都はこのころからルアンパバーンと呼ばれるようになる。

それでもビルマの攻勢は止められず、ヴィエンチャンは何度か占領された。持ち直したのは17世紀のスリニャウォンサー王の時代で、在位は57年に及び、王国の最も平和な時期とされる。1641年にはオランダ東インド会社の商人がヴィエンチャンを訪れ、仏教寺院の華やかさを書き残している。

だが、スリニャウォンサーには後継の男子が残らなかった。1694年ごろの王の死後、王位をめぐる争いが起こり、18世紀の初めに王国は三つに割れた。北のルアンパバーン、中央のヴィエンチャン、南のチャンパーサックである。三つの王国は互いに争い、それぞれが外の力に頼った。

その隙に、西のシャムが入り込んだ。1779年、アユタヤ陥落後のシャムを立て直したタークシンの軍がヴィエンチャンを落とし、エメラルド仏をシャムへ持ち去った。この仏像はいまもバンコクの王宮寺院に祀られている。三つの王国は、いずれもシャムに従う属国になった。

ヴィエンチャンのアヌウォン王は、その従属をはねのけようとした。1826年、王はシャムに兵を挙げ、一時はシャム東北部の要地コーラートまで進んだ。だがシャム軍の反撃に敗れ、1828年、ヴィエンチャンは徹底的に破壊された。寺院の多くが焼かれ、住民はメコンの西岸へ連れ去られた。王は捕らえられ、バンコクで獄死した。シャムが寺を一つだけ焼かずに残したと伝わり、それがいまもヴィエンチャンに残るシーサケート寺院だとされる。

19世紀の末、東からフランスが来た。ベトナムとカンボジアを手に入れたフランスは、かつてベトナムの宗主権が及んでいたと主張して、メコン東岸の領有を求めた。1893年、近代化を急いでいたシャム(シャムの近代化)は、フランスの砲艦外交に屈し、メコン東岸をフランスに譲った。こうしてルアンパバーン、ヴィエンチャン、チャンパーサックの地は、フランス領インドシナの一部として一つにまとめられた。いまのラオスの国の形はここから始まる。

一方、メコンの西岸はシャムに残った。シャムに連れ去られた人々の子孫も含め、タイの東北部(イサーン)には、ラオスの人口を何倍も上回るラオ系の人々が暮らしている。メコンを挟んで同じ言葉を話す人々が、二つの国に分かれて住んでいるのは、ランサーンの分裂から始まった歴史の結果になる。ルアンパバーンの町並みは1995年に世界遺産に登録され、パバーン仏はいまも王宮の跡に祀られて、新年にはその仏を水で清める祭りが開かれている。

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