人物

エドワード3世

Edward III of England
AD1312年11月13日 – AD1377年6月21日(享年64)
イングランド王国重要度 4

概要

父を廃した母と愛人を、17歳でクーデターで倒した。フランス王位を主張して百年戦争を始め、クレシーで勝ち、ガーター騎士団を作った。50年治め、晩年は愛人に指輪を抜かれて死んだ。

関わったできごと(1)

クレシーの戦いAD1346年8月26日 · 王

本文

エドワード3世は、1312年11月13日、ウィンザー城で生まれた。父はイングランド王エドワード2世、母はフランス王フィリップ4世の娘イザベラである。父は寵臣を重く用いて貴族の反発を買い、母とも不仲だった。

King Edward III from NPG
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1325年、イザベラは息子を連れてフランスへ渡り、そこで亡命中の貴族ロジャー・モーティマーと結ばれた。翌1326年、二人は兵を率いてイングランドに上陸し、王を捕らえた。1327年1月、エドワード2世は議会によって退位させられ、14歳のエドワード3世が即位した。前王はその年の9月、幽閉先のバークリー城で死んだ。焼けた火かき棒で殺されたという話は後世に広まったもので、死の真相は分からない。

若い王の名のもとで、国を動かしたのはモーティマーだった。モーティマーはスコットランドとの不利な講和を結び、権勢を誇った。1330年10月19日の夜、17歳になったエドワードは、わずかな仲間とともに、ノッティンガム城の地下の通路から城内に入り、母の部屋の近くでモーティマーを捕らえた。母は、愛しい息子よ、優しいモーティマーを憐れんで、と叫んだと伝えられる。モーティマーはロンドンのタイバーンで絞首刑になり、イザベラは宮廷から退けられた。ここからエドワードの親政が始まった。

エドワード2世に対するクーデタでイングランドに帰国した母イザベラとエドワード皇太子(ジャン・フーケ画)
エドワード2世に対するクーデタでイングランドに帰国した母イザベラとエドワード皇太子(ジャン・フーケ画)Wikimedia Commons Jean Fouquet · Public domain

1328年、フランス王シャルル4世が男子を残さずに死んでいた。フィリップ4世の息子は3人とも王位に就いたあと世を去り、直系の男子は絶えた。エドワードは、自分はフィリップ4世の娘の子として最も近い男系の親族だと考えた。しかしフランスの貴族たちは、女性は王位を継げず、女性を通しても王位は伝わらないとして、フィリップ4世の甥にあたるヴァロワ家のフィリップ6世を王に選んだ。

イングランド王はフランス南西部のガスコーニュを領地として持ち、そのためにフランス王の家臣でもあった。毛織物の産地フランドルの支配や、スコットランドへの支援をめぐっても両国は争った。1337年、フィリップ6世がガスコーニュの没収を宣言すると、エドワードはフランス王位を主張して戦争に踏み切った(百年戦争)。1340年には自らフランス王を名乗り、紋章にフランスの百合を加えた。同じ年、スロイスの沖の海戦でフランス艦隊を破った。

1346年、エドワードはノルマンディーに上陸し、クレシーでフランス軍を大破した(クレシーの戦い)。長弓兵の矢の雨が、フランスの騎士たちを倒した。続けて港町カレーを1年近く包囲して落とした。年代記作者フロワサールは、町を救うために身を差し出した6人の市民を王が処刑しようとし、王妃フィリッパが命乞いをして許させた話を伝える。

クレシーの戦いに関わる図版:Battle of crecy froissart
クレシーの戦いWikimedia Commons Loyset Liédet · Public domain

1348年、黒死病がイングランドを襲い、人口の3分の1から半分ほどが失われた。その頃、エドワードはガーター騎士団を作った。舞踏会で貴婦人の靴下留めが落ち、王がそれを拾って自分の脚に着け、笑う廷臣たちに「これを悪く思う者に災いあれ」と言ったのが騎士団の標語の由来だという話は、後世の伝説である。

1356年、長男のエドワード黒太子がポワティエでフランス王ジャン2世を捕らえた(ポワティエの戦い(1356年))。1360年のブレティニーの条約で、エドワードはフランス王位の主張を取り下げる代わりに、フランス南西部の広い領地を完全な主権のもとで得た。この頃が、彼の治世の頂点だった。

ポワティエの戦い(1356年)に関わる図版:Battle poitiers
ポワティエの戦い(1356年)Wikimedia Commons Eugène Delacroix · Public domain

1369年に戦争が再開すると、名将デュ・ゲクランの率いるフランス軍に押され、得た領地の多くを失っていった。同じ年に王妃フィリッパが死に、王は愛人アリス・ペラーズに頼るようになった。1376年の「善良議会」では、下院が初めて議長を立て、王の側近たちの汚職を追及して、のちの弾劾の手続きの先駆けとなった。同じ年、黒太子が父に先立って死んだ。

1377年6月21日、エドワードはロンドン西郊のシーンの館で死んだ。64歳、在位はちょうど50年だった。年代記作者ウォルシンガムは、アリス・ペラーズが死にゆく王の指から指輪を抜き取って去り、最後に付き添ったのは一人の司祭だけだったと書いている。

エドワード3世の戴冠式(ロイゼ・リデ(フランス語版)画)
エドワード3世の戴冠式(ロイゼ・リデ(フランス語版)画)Wikimedia Commons Loyset Liédet · Public domain

長い治世のあいだに、イングランドは変わった。黒死病で働き手が減ると、議会は賃金を疫病前の水準に抑える法を作り、これはのちの農民反乱の遠因になった(ワット・タイラーの乱)。1362年には法廷で英語を使うことが定められた。宮廷では若いジェフリー・チョーサーが仕え、フランス遠征で捕虜になったときには王が身代金の一部を出している。王位は10歳の孫リチャード2世が継いだ。エドワードの5人の息子の子孫たちは、のちの薔薇戦争で王位を争うことになる。

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