サイクス・ピコ協定

概要
イギリスのサイクスとフランスのピコが、オスマンの中東を地図の上で分けた。地中海のアッコからペルシアの国境のキルクークまで、「eからkまで線を引く」。北はフランス(シリア、レバノン)、南はイギリス(イラク、ヨルダン)、パレスチナは国際管理。秘密。1917年、ロシア革命でボリシェヴィキが公表した。アラブが裏切りを知った。いまの国境。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
第一次世界大戦が始まると、オスマン帝国はドイツの側について参戦した。イギリスとフランスにとって、オスマン帝国が負けたあと、その広大なアラブの領土をどう分けるかは、戦争のさなかに決めておくべき問題になった。フランスは、十字軍以来の縁と、レバノンのマロン派キリスト教徒の保護者という立場、そして絹や鉄道の利権を理由にシリアを求めた。イギリスは、インドへの道とペルシア湾、スエズ運河の東の守り、さらに1908年にペルシアで見つかった石油を視野に、メソポタミアとパレスチナに関心を持っていた。ロシアは1915年の春、コンスタンティノープルと海峡を戦後に得る約束を英仏から取り付けていた。
交渉を任されたのは、イギリスの保守党の議員マーク・サイクスと、フランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコである。サイクスはヨークシャーの準男爵家の出で、中東を旅して本を書き、30代の若さで政府の中東の専門家として重んじられていた。ピコはベイルートの総領事を務めたことのある、シリアへの思い入れの強い外交官だった。1915年11月から二人はロンドンで話し合い、翌1916年の初めに案をまとめた。サイクスは閣僚たちに、アッコのeからキルクークの最後のkまで一本の線を引きたい、と説明したという。

案は、5月にイギリス外相グレイとフランス大使カンボンの間の書簡で確かめられ、ロシアも同意した。地図は色で塗り分けられた。レバノンとシリアの沿岸から南東アナトリアのキリキアにかけての「青の地域」はフランスが直接支配し、バグダードからバスラにかけての「赤の地域」はイギリスが直接支配する。その間の内陸、ダマスクス、アレッポ、モスルを含む「A地域」と、いまのヨルダンからイラク北部にかけての「B地域」には、アラブの国家を置くが、それぞれフランスとイギリスの勢力圏とする。エルサレムを含むパレスチナは「茶色の地域」として国際管理に置き、地中海の港ハイファとアッコはイギリスのものとした。
この取り決めは秘密だった。ちょうど同じ頃、エジプト駐在のイギリス高等弁務官マクマホンは、メッカの太守フサインと手紙を交わし、オスマンに対して立ち上がれば、アラブの独立を支持すると約束していた。手紙の中の境界の書き方は曖昧で、どこまでがアラブの国に含まれるかは、のちに長い論争の種になる。1916年6月、フサインはアラブの反乱を起こし、息子のファイサルの軍は、イギリスの将校ロレンスらとともにヒジャーズ鉄道を襲いながら北へ進んだ。さらに1917年11月、イギリスはユダヤ人の「民族的郷土」をパレスチナに作ることを支持すると表明する(バルフォア宣言)。一つの土地に三つの約束が重なった。

秘密が明るみに出たのは、ロシア革命のためである。1917年11月、政権を握ったボリシェヴィキは、旧政府の外務省の文書から帝国主義の秘密条約を次々に新聞に載せた。協定の内容を知ったオスマン帝国の将軍ジェマル・パシャは、イギリスはアラブを騙している、とフサインの側に伝えて離反を誘った。フサインが問いただすと、イギリスは誤解だと答えてなだめた。1918年10月、アラブの軍はイギリス軍とともにダマスクスに入り、ファイサルはそこにアラブの国を作ろうとした。
戦後のパリ講和会議では、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが民族の自決を唱えていた(十四か条の平和原則)。アメリカが送ったキング・クレーン委員会はシリアとパレスチナの住民の声を聞き、多くの人が独立を望み、委任統治が避けられないならフランスではなくアメリカに、と答えたことを報告した。だが、その報告は顧みられなかった。1920年4月のサン・レモ会議で、シリアとレバノンはフランスの、イラクとパレスチナ(のちのトランスヨルダンを含む)はイギリスの委任統治とされた。7月、フランス軍はダマスクス近郊のマイサルーンでアラブの軍を破り、ファイサルを追放した。イギリスは翌1921年、ファイサルをイラクの王に、その兄アブドゥッラーをトランスヨルダンの首長に据えた。

実際に引かれた国境は、協定の線そのままではない。戦争の終わりにイギリスはフランスと話をつけ、石油の見込まれたモスルをイギリス側に移し、パレスチナも国際管理ではなく自分の委任統治とした。それでも、英仏が住民の意思を聞かずに中東を分け合ったという協定の性格は、そのまま戦後の秩序に引き継がれた。レバノン、シリア、イラク、ヨルダン、イスラエルとパレスチナという、いまの国々の枠組みは、このときの分割の上にできている。民族や宗派の分布と合わない国境が、のちの紛争の一因になったと言われることも多い。ただ、中東の不安定のすべてを一枚の協定のせいにするのは単純すぎる、という指摘も研究者からは出ている。
協定の名は、いまも生きた言葉である。2014年、イラクとシリアにまたがって支配を広げた過激派組織は、両国の国境の土手をブルドーザーで崩す映像を流し、「サイクス・ピコの終わり」を宣言した。サイクス自身は、自分の線が引き起こしたものを見届けていない。1919年2月、講和会議のさなかのパリで、流行していたスペイン風邪にかかり、39歳で亡くなった。