人物

アーサー・フィリップ

Arthur Phillip
AD1738年10月11日 – AD1814年8月31日(享年75)
イギリス重要度 4

概要

ロンドンのドイツ人の語学教師の子。海軍。第一船団の司令官で、初代ニューサウスウェールズ総督。8か月の航海で、囚人の死者は48人(当時としては非常に少ない。野菜と清潔に気を配った)。飢えかけた最初の3年を耐えた。先住民との関係を穏やかに保とうとして、槍で肩を刺されても報復を禁じた。ベネロンを友人にして、イギリスへ連れて行った。

関わったできごと(1)

第一船団のボタニー湾到着AD1788年1月26日 · 率いた

本文

アーサー・フィリップは1738年10月11日、ロンドンで生まれた。父ヤーコプはドイツのフランクフルトから来た語学教師で、母エリザベスは海軍の水兵だった前夫を亡くした寡婦だった。家は貧しく、父は彼が幼いうちに死んだ。少年アーサーは、船乗りの孤児や貧しい家の子が学ぶグリニッジの病院付属学校に入り、13歳で捕鯨船の見習いになった。1755年に海軍に入り、七年戦争を戦った。戦争が終わると半給の身で退役し、ハンプシャーで農場を営んだ。

アーサー・フィリップ
アーサー・フィリップWikimedia Commons Sherwin, William, approximately 1650-approximately 1714 · Public domain

1774年、彼は英国政府の許可を得て、同盟国ポルトガルの海軍に移った。南米のブラジルを拠点に、スペインとの国境争いの中で艦を指揮した。このとき、囚人を乗せた船を指揮して長い航海をし、一人も死なせずに送り届けたと報告している。ポルトガル語を覚え、南米の港の事情にも通じた。1778年に英国海軍に戻り、その後はフランスやスペインの港の様子を探る諜報の仕事もした。

そのころ英国は、囚人の行き場に困っていた。軽い盗みでも流刑が科される時代で、それまでは北米の植民地に送っていたが、アメリカの独立でその道が閉ざされた。監獄は満杯になり、テムズ川に浮かべた廃船にまで囚人が詰め込まれた。政府が選んだのが、18年前にジェームズ・クックが上陸した南半球の大陸の東岸、ボタニー湾だった。1786年10月、48歳のフィリップは、遠征隊の司令官と、新しい植民地ニューサウスウェールズの総督に任命された。半給で暮らす無名の佐官がなぜ選ばれたのかははっきりしないが、ポルトガルでの経験が評価されたと考えられている。

アーサー・フィリップ像(シドニー王立植物園)
アーサー・フィリップ像(シドニー王立植物園)Wikimedia Commons Photograph by Greg O'Beirne · CC BY 2.5

彼は準備の段階から、政府に何度も手紙を書いた。囚人だけを送っても植民地はできない。農民、大工、煉瓦職人が要る。種と家畜と道具が要る。衣類と薬が足りない。要求の多くは聞き入れられなかったが、彼は航海中の健康管理には目を配った。寄港地で新鮮な野菜や果物を積み込み、船内を洗い、風を通し、囚人を甲板に出して体を動かさせた。1787年5月、11隻の船団(第一船団)が1000人を超える人々を乗せてポーツマスを出た。カナリア諸島、リオデジャネイロ、ケープタウンを経て約8か月、航海中の死者は50人足らずで、当時の長距離の囚人輸送としては際立って少なかった。

1788年1月、船団はボタニー湾に着いた(第一船団のボタニー湾到着)。しかし湾は浅く、真水も良い土地も乏しかった。フィリップは小舟で北の入り江を探り、深く穏やかな湾を見つけた。1月26日、彼はそこに英国旗を立てた。内務大臣シドニー卿にちなんで、その入り江はシドニー・コーヴと名づけられた。この日はいまオーストラリアの建国記念日になっている。

ウィートリー画、アーサー・フィリップの肖像
ウィートリー画、アーサー・フィリップの肖像Wikimedia Commons Francis Wheatley · Public domain

最初の数年は飢えとの闘いだった。持ってきた種は土に合わず、家畜は逃げたり死んだりした。本国からの補給船は来なかった。1790年には全員の配給が減らされ、フィリップは総督の分も皆と同じ量にし、自分の蓄えも共同の倉に入れた。食料を求めて送り出した軍艦シリウス号は、ノーフォーク島の沖で座礁して失われた。ようやく補給船が着いたのは、その年の6月だった。

先住民に対して、フィリップは本国から友好を保つよう指示されていた。彼は、先住民を傷つけた者は囚人でも兵でも罰すると命じた。言葉を知って意思を通わせようと、1788年の暮れにはアラバヌーという男を捕らえて手元に置いたが、彼は翌年に流行した天然痘で死んだ。続いて捕らえたベネロンは一度逃げたが、やがて自ら戻ってきてフィリップと親しくなった。1790年9月、フィリップはマンリーの浜で先住民の男に槍を投げられ、肩を深く刺された。誤解だったのか、何かの報復だったのかは分からない。彼は報復を禁じた。ところが同じ年の12月、狩猟係の囚人が槍で殺されると、彼は兵を出して6人の首を持ち帰れと命じた。遠征は一人も捕らえられずに終わったが、この命令は彼の先住民政策の限界を示すものとして語られる。

フィリップが1755年に海軍入隊後最初に配属されたHMSバッキンガム。1751年頃、デトフォード造船所で建造中の姿(ジョン・クリーブリー画)
フィリップが1755年に海軍入隊後最初に配属されたHMSバッキンガム。1751年頃、デトフォード造船所で建造中の姿(ジョン・クリーブリー画)Wikimedia Commons John Cleveley the Elder · Public domain

1789年、天然痘がシドニー周辺の先住民を襲い、入り江の岸辺に多くの遺体が残された。この地の住民の半数ほどが死んだと推定されている。病がどこから来たのか、船団が持ち込んだのか、北の海から来た漁民が持ち込んだのかは、いまも議論が続いている。

1792年12月、体調を崩したフィリップは総督を辞して英国へ帰った。ベネロンともう一人の先住民の若者が同行した。その後も海軍に籍を置き、1805年には大将に昇進した。1814年8月31日、保養地バースで死んだ。75歳。

1788年、ポート・ジャクソンに上陸する第一船団
1788年、ポート・ジャクソンに上陸する第一船団Wikimedia Commons E. Le Bihan · Public domain

シドニーの植物園には彼の像が立つ。長く「穏健な創設者」として語られてきたが、近年は、彼が始めた植民地が先住民にとって何を意味したのかという問いの中で、読み直しが進んでいる。1月26日を祝日とすることに対して、先住民の側から「侵略の日」と呼ぶ声が上がっているのも、その表れである(アボリジナル・テント大使館)。

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