ムハンマド・アリー・ジンナー
概要
はじめはヒンドゥーとムスリムの融和を説いた法律家。のちに分離独立を主導し、パキスタンの建国者になる。
関わったできごと(1)
インドの独立AD1947年8月15日 · パキスタン側本文
1876年12月25日、イギリス領インドの港町カラチに生まれたとされる(学校の記録には別の日付があり、実際は1875年生まれとする説もある)。家はグジャラート地方から移ってきた商人で、イスラームのなかでも少数派のイスマーイール派に属する一族だった。のちに「ムスリムの国」を作る人物は、ムスリムの主流からは少し外れた家に育った。

16歳でロンドンへ渡った。商社で働くための渡航だったが、すぐに法律の道に切り替え、リンカーン法曹院で学んで、19歳で弁護士の資格を得た。ロンドンでは劇場に通い詰め、役者になろうかと考えたこともあったという。帰国してボンベイで弁護士を開業すると、鋭い弁論でたちまち成功した。いつも仕立てのよい洋服を着こなし、片眼鏡をかけた姿で知られた。
政治に入ったのは、インド国民会議派からだった。1906年に会議派の大会に出席し、長老ダーダーバーイー・ナオロージーの秘書を務めた。1913年にはムスリムの政治団体である全インド・ムスリム連盟にも加わったが、会議派をやめたわけではない。1916年、両者が協力してイギリスに自治を求めるラクナウ協定をまとめたのは、ジンナーの働きが大きかった。詩人のサロージニー・ナーイドゥは、彼を「ヒンドゥーとムスリムの統一の大使」と呼んだ。

転機は1920年前後に訪れる。ガンディーが会議派の指導者になり、イギリスへの非協力運動を始めた。ガンディーは、オスマン帝国のカリフを守ろうとするインドのムスリムの運動とも手を組み、宗教的な熱情で大衆を動かした。ジンナーはこれに反対した。法と議会の手続きによって自治を勝ち取るべきで、宗教を大衆政治に持ち込むことは危険だと考えた。1920年の会議派大会で、ガンディーを「マハートマ」ではなく「ミスター」と呼んで野次られ、まもなく会議派を離れた。
私生活では、1918年、24歳年下でパールシー(ゾロアスター教徒)の富豪の娘ルッティーと結婚した。双方の家と宗教共同体から反対された結婚だった。二人の仲はやがて冷え、ルッティーは1929年、29歳で亡くなった。ジンナー自身は酒を飲み、ウルドゥー語はうまく話せず、演説は英語で行った。宗教的な戒律を守る人ではなかった。

1930年代の初め、ジンナーはインドの政治に失望してロンドンに移り住んだ。数年後に呼び戻され、ムスリム連盟の立て直しにあたる。1937年の州議会選挙で、連盟はムスリムの票さえ十分に取れなかった。一方、大勝した会議派は、連盟と連立を組むことを拒んだ。ジンナーは、多数決の民主政ではムスリムは永遠に少数派として扱われる、と考えるようになる。
1940年3月、ラホールで開かれた連盟の大会は、ムスリムが多い地域を独立した国家とするよう求める決議を採った。ヒンドゥーとムスリムは宗教が違うだけでなく、歴史も文化も法も違う二つの民族だ、とする「二民族論」がその土台だった。第二次大戦中、会議派の指導者たちが「インドを立ち去れ」運動で投獄されている間に(「インドを立ち去れ」運動)、連盟は勢力を大きく伸ばした。ジンナーは「偉大な指導者」(カーイデ・アーザム)と呼ばれるようになる。

戦後、イギリスは統一インドのまま独立させる案を示したが、会議派と連盟は折り合えなかった。1946年8月16日、ジンナーはパキスタンを求める「直接行動の日」を呼びかけた。その日、カルカッタでヒンドゥーとムスリムの衝突が起き、数日で数千人が死んだ。暴力は各地に広がり、分離はもはや避けられないものになった。
1947年8月14日、パキスタンが成立し、ジンナーは初代総督になった(インド・パキスタン分離)。国は、インドを挟んで西と東の二つに分かれていた。独立の3日前、制憲議会での演説で、あなたがたは寺院にもモスクにも自由に行ってよい、宗教は国家の仕事とは関係がない、と語っている。ムスリムのための国を作りながら、宗教に基づく国家を作るつもりはなかったとも読める言葉で、この演説の解釈は、いまもパキスタンで論争の的になっている。一方で、東パキスタンを訪れた際にウルドゥー語だけを国語とすると宣言し、ベンガル語を話す人々の強い反発を招いた。この対立は、のちのバングラデシュの独立につながっていく。

ジンナーは何年も前から結核を患っていたが、それを隠し通していた。独立からわずか13か月後の1948年9月11日、カラチで亡くなった。71歳だった。インド最後の総督マウントバッテンは後に、彼の病を知っていれば、独立を遅らせて分離を避ける道を考えたかもしれない、という趣旨のことを語っている。
分離では、数十万から100万人以上が死に、1000万人を超える人々が住む土地を追われたとされる。独立直後にはカシミール紛争の始まりも始まった。ジンナーがこの混乱をどこまで予期していたかは分かっていない。パキスタンでは国の父として紙幣に描かれ、インドでは国を割った人物として語られることが多い。統一を説いた法律家が、分離の建国者になった。その道筋に、ジャワハルラール・ネルーやガンディーとの対立と、会議派の側の判断がどう関わったかも、研究者の間で議論が続いている。