できごと

サモリ・トゥーレの抵抗

Samori Ture's resistance
1882年 – 1898年
期間を持つできごと重要度 3
ロシア帝国大英帝国ブラジル王国オスマン帝国アラビアポルトガル帝国エジプトスペイン帝国ソコト帝国フランススペインエチオピア帝国Algeria (FR)モロッコイタリアトゥクロール帝国Kanem-Bornuウテテラ王国Sultinate of Zanzibarワダイ王国コング帝国ブルガリアモシ諸王国YekeMirambo Unyanyembe Ukimbuギリシャボルグ諸国デンディ王国Senegal (FR)アシャンティ王国Rabih az-ZubayrコンゴTekeルンダ王国アンゴラ(ポルトガル領)YakaMbailundu1882年トンブクトゥ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている1882年の版図を描いています(37勢力)。

概要

西アフリカでフランスに16年抗った。自前で銃を作らせ、退きながら国ごと移動する戦い方をとる。

場所

トンブクトゥ
16.77°N -3.01°E · マリ

関わった人(1)

サモリ・トゥーレAD1830年頃–AD1900年6月2日 · 指導

本文

19世紀の西アフリカの内陸では、イスラームの改革を掲げる指導者たちが次々と国を興していた。ニジェール川の上流、今のギニアの東部から内陸にかけては、マンデ系の言葉を話す人々が住み、かつてのマリ帝国(マリ帝国の成立)の記憶が残る土地だった。そこに現れたのがサモリ・トゥーレである。

サモリは1830年ごろ、ジュラと呼ばれるマンデ系の行商人の家に生まれた。若い頃は商人として各地を歩いたが、20歳前後のとき、母が近くの首長との戦いで捕らえられた。サモリはその首長の軍に入って兵として仕え、7年ほどかけて母を取り戻したと伝えられる。そこで戦い方と兵の率い方を身につけ、やがて自分の兵を集めて独り立ちした。

サモリ・トゥーレ帝国の版図の変遷
サモリ・トゥーレ帝国の版図の変遷Wikimedia Commons HetmanTheResearcher · CC BY 4.0

1860年代から1870年代にかけて、サモリは周りの小さな首長国を一つずつ従え、ビサンドゥグを都とする国を築いた。ワスル(ワスールー)と呼ばれるこの国は、最盛期には今のギニア、マリ、コートジボワールにまたがる広さを持った。1884年ごろには、イスラームの指導者を意味するアルマミの称号を名乗り、イスラームを国の柱に据えた。国は州に分けられ、各州に兵と役人が置かれた。

同じ頃、フランスは西のセネガルからニジェール川をめざして内陸へ進んでいた。ヨーロッパ諸国がアフリカを分け合うアフリカ分割の時代であり、1884年からのベルリン会議(ベルリン会議とアフリカ分割)はその取り決めの場になった。1882年、サモリの軍は初めてフランス軍とぶつかる。それから16年、サモリはフランスと戦い、ときに条約を結んで時を稼ぎ、また戦った。

ベルリン会議とアフリカ分割に関わる図版:Kongokonferenz
ベルリン会議とアフリカ分割Wikimedia Commons Adalbert von Roessler · Public domain

サモリの戦い方で際立つのは、武器の手当てである。サモリは南のシエラレオネの港フリータウンを通じて、イギリスの商人から当時最新の連発銃を買い入れた。フランスがその道を締めつけると、国の中に鍛冶の工房を作り、数百人の職人を集めて銃を修理させ、弾薬を作らせた。戦場で手に入れたフランスの銃を分解して部品を写し、複製を作らせたとも伝えられる。こうしてサモリの軍は、ヨーロッパの銃で武装した数千人の常備兵を持つまでになった。

1891年、フランスは本格的な攻勢に出て、サモリの都ビサンドゥグを奪った。サモリは正面から都を守ろうとはせず、東へ退いた。退くときには、敵に食糧を与えないよう畑や村を焼き、住民と兵を連れて移動した。そして新しい土地を征服し、そこに国を建て直した。1890年代のなかばには、国の中心は今のコートジボワール北部からガーナ北部へ移り、ダバカラを新しい都とした。国ごと動きながら戦う、他に例の少ないやり方だった。

捕縛後のサモリ・トゥーレ(1898年9月29日)
捕縛後のサモリ・トゥーレ(1898年9月29日)Wikimedia Commons Henri Gaden · Public domain

その代償も大きかった。移動の先々でサモリの軍は土地の人々を従わせ、逆らう町を攻め落とした。1897年には、交易と学問の町として知られたコングを焼いている。兵と武器を養うため、捕らえた人々を奴隷として売り、馬や銃と交換したことも記録されている。サモリは植民地支配に抗った英雄であると同時に、周りの人々にとっては恐ろしい征服者でもあった。

1890年代の末になると、東にはイギリスが進出し、サモリは東西から挟まれた。食糧が尽き、兵は飢えと病で減っていった。1898年9月、サモリは山中の野営地でフランスの部隊に急襲されて捕らえられた。フランスは彼を赤道直下のガボンへ流し、オゴウェ川の中の島に置いた。サモリは1900年6月、その地で肺の病のため亡くなった。

サモリの抵抗は、同じ時代のアドワの戦いのような決定的な勝利には結びつかなかった。それでも、自前で武器を作り、退きながら国を保ち続けた16年は、西アフリカで最も長く、最もねばり強い抵抗の一つとして記憶されている。

アドワの戦いに関わる図版:Adoua 1
アドワの戦いWikimedia Commons The Graphic , from details supplied by survivors · Public domain

1958年、ギニアがフランスから独立したとき、初代大統領になったのはセク・トゥーレだった。セク・トゥーレはサモリの子孫を名乗り、孫とも曾孫とも言われる。独立の指導者は、フランスに屈しなかった祖先の名を、新しい国の誇りとして掲げた。サモリの評価は今も国や立場によって分かれるが、ギニアでは国の英雄として扱われている。

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