オーストリア継承戦争

概要
女性の相続を各国が認めないと言い出し、8年の戦争になった。プロイセンがシュレージエンを取り、マリア・テレジアは帝位以外を守り切る。
場所
48.21°N 16.37°E · オーストリア
関わった人(2)
マリア・テレジアAD1717年5月13日–AD1780年11月29日 · 守る側フリードリヒ2世(大王)AD1712年1月24日–AD1786年8月17日 · 攻める側本文
神聖ローマ皇帝で、オーストリアのハプスブルク家の当主カール6世には、成人した男子がいなかった。ハプスブルク家の領地は、オーストリア、ボヘミア、ハンガリー、ネーデルラントの南部、北イタリアの一部と、地域ごとに別々の法と身分制議会を持つ国々の寄せ集めで、その相続には男子を優先する慣習があった。娘しかいなければ、領地はばらばらに分けられかねない。
カール6世は1713年、「国事詔書」と呼ばれる取り決めを定め、男子がいない場合は娘が全領地をまとめて相続すると決めた。それから20年以上をかけて、領内の議会とヨーロッパの諸国に、一つずつこれを認めさせていった。そのために領土や通商の権利を譲ることもいとわなかった。軍隊や国庫を立て直すより、紙の上の約束を集めることに力を注いだ、と後の歴史家は評している。

1740年10月、カール6世が亡くなり、23歳の長女マリア・テレジアが後を継いだ。約束はたちまち崩れた。最初に動いたのは、同じ年の5月に即位したばかりのプロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ2世(大王))だった。12月、フリードリヒは宣戦布告もしないまま、ハプスブルク家の領地のうち最も豊かな地方の一つ、シュレージエンに軍を入れた。古い相続の権利を口実に掲げたが、本人は後年、名声を得たいという若さと、整った軍と満ちた国庫があったからだ、という趣旨のことを率直に書き残している。
翌1741年4月、モルヴィッツの戦いでプロイセン軍はオーストリア軍を破った。これを見て、周りの国々が次々と動いた。バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトは、自分の妻がカール6世の兄の娘であることを根拠に相続を主張した。フランスはハプスブルク家の力を削ぐ好機と見てバイエルンを支え、スペインやザクセンも加わった。バイエルンとフランスの軍はボヘミアに入り、プラハを落とした。1742年、カール・アルブレヒトは皇帝カール7世に選ばれる。ハプスブルク家以外から皇帝が出るのは、300年ぶりのことだった。

マリア・テレジアは孤立し、国庫は空で、軍は弱かった。1741年9月、彼女はハンガリーのプレスブルク(いまのブラチスラヴァ)の議会に赴き、貴族たちに助けを求めた。ハンガリーの貴族は、ハプスブルク家の支配に長く反発してきた人々だった。だが若い女王の訴えに心を動かされ、「我らの命と血を女王に」と叫んで兵を出すことを約束したと伝えられる。生まれたばかりの王子ヨーゼフを抱いて議会に現れた、という有名な場面は、何日かあとの別の場の出来事が一つに合わさって語られたものとみられている。ハンガリーの騎兵を得たオーストリア軍は反撃に転じ、皇帝となったばかりのカール7世の都ミュンヘンを占領した。
マリア・テレジアは、最も手強い敵を先に戦いから外すことにした。1742年、シュレージエンの大半をプロイセンに譲って講和し、その分の力をバイエルンとフランスに向けた。イギリスは、フランスの勢力拡大を嫌ってオーストリアの側についた。1743年、イギリス王ジョージ2世はドイツのデッティンゲンで自ら軍を率いてフランス軍を破った。イギリスの王が戦場で兵を指揮したのは、これが最後になる。
オーストリアが盛り返すと、フリードリヒはシュレージエンを取り返されることを恐れて、1744年にふたたび戦端を開いた。だが翌年の戦いでも勝ち続け、1745年12月のドレスデンの講和で、シュレージエンの領有をあらためて認めさせた。その年の初めにカール7世が病死し、マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンが皇帝フランツ1世に選ばれて、帝位はハプスブルクの家に戻った。
戦争はヨーロッパの外にも広がった。イギリスとフランスは、北アメリカとインドで植民地をめぐって争った。北アメリカではニューイングランドの植民地の兵がフランスの要塞ルイブールを落とし、インドではフランスがイギリスの拠点マドラスを奪った。1745年には、フランスの支援を受けたスコットランドのジャコバイトが、追われたスチュアート家の復位を掲げて反乱を起こした。フランドルではフランスのザクセン元帥がフォントノワで勝利を重ねた。

1748年、アーヘンで講和が結ばれた。占領地はおおむね元に戻され、ルイブールとマドラスも交換された。戦った国々のどこも、大きく得をしなかった。ただ一つの例外がプロイセンで、シュレージエンの豊かな土地と人口と産業を手に入れ、ヨーロッパの大国の仲間入りを果たした。
マリア・テレジアは、王位と、シュレージエン以外の領地のほぼすべてを守りきった。そしてこの戦争の教訓から、軍と税と行政の改革に取り組みはじめる(マリア・テレジアの統治)。シュレージエンを取り戻すために、彼女は長年の敵フランスと手を結ぶという外交の大転換に踏み切り、それが1756年の七年戦争につながった。北アメリカとインドでの英仏の争いも、決着は次の戦争に持ち越され、インドではプラッシーの戦いがその行方を決めることになる。