人物

スーリヤヴァルマン2世

Suryavarman II
? – AD1150年頃
クメール王朝重要度 4

概要

アンコール・ワットを建てた王。ヴィシュヌに捧げられた、当時世界最大級の宗教建築になる。

関わったできごと(1)

アンコールの隆盛AD1150年頃 · アンコール・ワットを建てた王

本文

スーリヤヴァルマン2世は、いまのカンボジアを中心に栄えたクメール帝国の王で、アンコール・ワットを建てた人物として知られる。生まれた年は分からない。名は「太陽に守られた者」を意味する。王族ではあったが、直系の王子ではなかった。

12世紀の初め、クメールの王国は王位をめぐる争いで分裂していた。碑文によれば、若い王子だったスーリヤヴァルマンは、1113年頃、二人の王を相手に戦って勝利し、王位に就いた。そのうちの一人は、彼の大おじにあたる王だったとされる。碑文は、彼が敵の王の乗る象に飛び移り、神鳥ガルダが山頂の蛇に襲いかかるようにして王を倒した、と誇らしげに書いている。即位の儀式を執り行ったのは、すでに何代もの王に仕えていた高僧だった。

王位に就いたスーリヤヴァルマンは、王国を再び一つにまとめ、その版図をクメールの歴史で最も広いものにした(アンコールの隆盛)。中国との関係も結び直し、1116年には宋へ使節を送っている。

彼の名を不朽にしたのが、都アンコールの南に建てた巨大な寺院、アンコール・ワットである。建設はおよそ30年に及び、王の治世のほぼすべてが費やされたとみられる。周りを幅190メートルの濠が囲み、その内側に、中央の高い塔を四つの塔が取り囲む五つの塔が立つ。須弥山と呼ばれる神々の住む山と、それを取り巻く大地と海を、石で表したものとされる。

それまでのクメールの王たちの寺院の多くは、ヒンドゥー教の神シヴァに捧げられていた。アンコール・ワットは、もう一人の大神ヴィシュヌに捧げられている。また、クメールの寺院の多くが東を向いて建てられているのに対し、アンコール・ワットは西を向いている。西は死者の方角とされることから、王が死後に自分を祀らせるための墓廟だったという説がある。回廊の浮き彫りを、葬送の儀礼と同じ反時計回りに見るように作られていることも、その根拠に挙げられる。ただし、ヴィシュヌが西の方角と結びつけられていたためだとする説もあり、決着はついていない。

第一回廊の壁には、全長にして700メートルを超える浮き彫りが続く。インドの叙事詩ラーマーヤナとマハーバーラタの戦いの場面、神々と魔族が大蛇を綱にして海をかき回し、不老不死の薬を得ようとする乳海攪拌の神話、そして天国と地獄の図である。その一面に、王自身の姿が彫られている。玉座で家臣たちの謁見を受ける王と、日傘を連ねて進む軍の行列である。行列の中には、シャムと記された一団もいる。浮き彫りの王の傍らには、死後に贈られた名「パラマヴィシュヌローカ(至高のヴィシュヌの世界に赴いた者)」が刻まれており、この部分は王の死後に完成したことが分かる。

スーリヤヴァルマンは、外へも盛んに兵を出した。東の隣国である大越(いまのベトナム北部)へは、1120年代から何度も陸と海から攻め込んだが、成果は上がらなかった。南東のチャンパ(いまのベトナム中部・南部)とは、手を組んだり戦ったりを繰り返した。1145年にはチャンパの都を攻め落とし、自分の縁者を王に立てたが、数年のうちにチャンパの反撃で追い出された。

王の最後ははっきりしない。最後に彼の名が出てくる碑文は1145年のもので、1150年頃に死んだとみられている。大越への遠征の最中に死んだという説もあるが、確かなことは分からない。

彼の死後、王国は再び混乱に陥り、1177年にはチャンパの軍が水路から都アンコールを襲って略奪した。この危機を収めたのがジャヤーヴァルマン7世で、彼は仏教を重んじ、新たに城壁都市アンコール・トムを築いた(ジャヤヴァルマン7世とアンコール・トム)。アンコール・ワットはその後、上座仏教の寺院として使われ続け、廃都となった後も人々が祈りに訪れた。17世紀には日本人の参詣者もいて、壁に墨書を残している。いまアンコール・ワットはカンボジアの国旗に描かれ、国の象徴となっている。

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