ヴィジャヤナガル王国

概要
南インドのヒンドゥー王国。訪れた外国人が「ローマに匹敵する」と書き残した都を持つ。
場所
15.34°N 76.46°E · インド・カルナータカ州(ヴィジャヤナガル)
関わった人(1)
クリシュナデーヴァラーヤAD1471年–AD1529年 · 最盛期の王本文
13世紀の初め、北インドにはイスラーム教徒の王朝が立ち、デリーを都に国を広げていった(デリー・スルタン朝の成立)。14世紀の初めには、その軍がデカン高原を越えて南インドまで攻め込み、古くからのヒンドゥーの王国は次々に倒された。だが、デリーの支配は遠い南までは長く続かなかった。各地で反乱が起き、その中から生まれたのが、ヴィジャヤナガル王国である。
伝承によれば、1336年、ハリハラとブッカという兄弟が、トゥンガバドラ川のほとりに都を築いたのが始まりとされる。兄弟はもともとデリーの軍に仕えていた、などの話も伝わるが、その出自ははっきりしない。都の名ヴィジャヤナガルは「勝利の都」を意味する。王国は南インドの多くを従え、北のデカンに立ったイスラームの王朝、バフマニー朝と、その後に分かれた国々と、豊かな土地をめぐって争い続けた。

都が築かれたのは、いまのカルナータカ州のハンピにあたる場所である。巨大な花崗岩の岩が積み重なる不思議な景観の中に、城壁と寺院と宮殿が広がっていた。乾いた高原にもかかわらず、川から引いた水路や大きな貯水池が都と周りの畑をうるおした。
都を訪れた外国人たちは、その大きさと豊かさに驚いた。15世紀の半ばに来たペルシアの使節アブドゥッラザークは、都が七重の城壁に囲まれ、市場には宝石があふれていたと書いた。16世紀の初めに来たポルトガル人ドミンゴス・パエスは、この都はローマと同じくらい大きく、見ていてとても美しい、と記している。人口については、数十万とする推定がある。

最盛期の王がクリシュナデーヴァラーヤだった。1509年に即位し、北のイスラームの国々との戦いに勝ち、東のオリッサの王国からも土地を奪った。ちょうどそのころ、ポルトガル人がインドの西岸に来て、1510年にゴアを手に入れていた(ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路)。王国は騎兵に使うアラビアやペルシアの馬をポルトガル人を通じて買い入れ、ポルトガル人と良い関係を保った。クリシュナデーヴァラーヤは学問と芸術を保護し、自らもテルグ語で詩を書いた。都の寺院には、この時代に建てられた壮麗な門塔や、石で造られた山車などが残る。
ヴィジャヤナガルは、イスラームの侵入に対してヒンドゥーの文化を守った王国として語られることが多い。だが実際の姿は、もっと入り組んでいた。王国は騎兵や弓兵としてムスリムの兵を雇い、都にはムスリムの住む地区もあった。宮殿の建物には、イスラーム風の弓形の門や丸屋根が取り入れられている。北のスルタンの国々も、ヒンドゥーの兵や役人を使っていた。争いは宗教の争いというより、豊かな土地と交易をめぐる争いだった。

1565年1月、北のデカンのスルタンの国々が手を結び、ヴィジャヤナガルの軍とぶつかった(ターリコータの戦い)。戦いの最中に、実権を握っていた宰相のラーマ・ラーヤが捕らえられて首をはねられ、軍は崩れた。スルタンの軍は都に入り、数か月にわたって略奪と破壊を続けた。寺院や宮殿は焼かれ、壊された。
王朝はその後も南へ都を移して1646年まで続いたが、かつての力は戻らなかった。南インドの各地では、王国に仕えていた地方の長たちが独立し、それぞれの国を作った。

捨てられた都は、岩山の中で廃墟になった。19世紀の初め、イギリスの測量官がこの遺跡を調べて図面を残し、1900年にはイギリスの役人ロバート・シューエルが、パエスらポルトガル人の記録を英語に訳して『忘れられた帝国』という本にまとめた。旅人の書き残した言葉が、廃墟に再び都の姿を与えたのである。いまハンピの遺跡は世界遺産に登録され、ヴィルーパークシャ寺院のように、壊されたあとも祈りの場として使われ続けてきた寺院もある。岩の上から見下ろすと、何キロにもわたって、崩れた城壁と寺院と市場の跡が広がっている。