できごと

エチオピア・ソロモン朝の成立

Solomonic dynasty
AD1270年
重要度 3
モンゴル帝国バントゥー系の人びとトゥアレグの遊牧諸部族西遼(カラ・キタイ)西アフリカの穀作農民ベルベル諸部族チベットブワイフ朝マムルーク朝ファーティマ朝ラージプートの諸王国ガズナ朝デリー・スルタン朝デリー・スルタン朝イファト王国ムワッヒド朝マリ帝国マクリアエチオピア帝国チョーラ朝マダガスカルKwarizm-Shah東ローマ帝国アルワイスラムの都市国家群ブワイフ朝ハドラマウトイエメンカネムアルメニアIbaditesネパールマスカットヴェネツィア共和国Dutchy of BeneventoAD1270年ラリベラ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1270年の版図を描いています(35勢力)。

概要

ソロモンとシバの女王の子孫を名乗る王朝が立った。1974年まで700年続く。

場所

ラリベラ
12.03°N 39.04°E · エチオピア

関わった人(1)

イェクノ・アムラク?–AD1285年 · 王朝を開いた

本文

12世紀から13世紀のエチオピア高原を治めていたのは、ザグウェ朝だった。高原の中部のラスタ地方から興った王朝で、岩を掘り抜いた見事な教会群を残したことで知られる(ラリベラの岩窟教会)。キリスト教の信仰に篤い王朝だったが、その出自は、かつて紅海交易で栄えたアクスムの王家(アクスムの紅海交易)とはつながっていなかった。

1270年、高原の南部のアムハラ地方の領主イェクノ・アムラクが、ザグウェ朝の王を倒して王位に就いた。彼が掲げたのが、血統の主張である。自分はアクスムの王家の血を引き、その王家は古代イスラエルのソロモンとシバの女王の間に生まれたメネリク1世に始まる、というものだった。ザグウェ朝はその血を引いていない。だから王位を奪った僭主の家であり、自分は正統な王統を回復したにすぎない、という理屈になる。

ハイレ・セラシエ1世の戴冠式(1928年)
ハイレ・セラシエ1世の戴冠式(1928年)Wikimedia Commons Unknown photographer · Public domain

王朝の交代には、教会も深く関わった。イェクノ・アムラクの即位を、名高い修道士のテクレ・ハイマノトらが助け、その見返りに王は国の土地の3分の1を教会に与えた、と伝えられる。この話は後世の教会の記録によるもので、どこまで事実かは分からない。だが、王権と教会が手を結んで新しい王朝を支えたことは確かで、この結びつきは王朝の最後まで続く。

血統の物語を一つの書物にまとめたのが『ケブラ・ナガスト(王たちの栄光)』である。14世紀の初めに、古い伝承や聖書、さまざまな外典を下敷きに編まれたとされる。旧約聖書には、シバの女王がソロモンの知恵を聞いてエルサレムを訪れた話が短く出てくる。『ケブラ・ナガスト』はこれを大きくふくらませた。女王はソロモンとの間に子を宿し、国に帰って男の子を産む。成長したその子メネリクは父を訪ね、帰国するとき、神とイスラエルの契約の箱をひそかに持ち帰った。神の恵みはイスラエルを離れてエチオピアに移り、エチオピアの王こそが神に選ばれた民の正統な後継者になった、という筋である。

イェクノ・アムラク
イェクノ・アムラクWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

契約の箱は、いまもアクスムの聖マリア・シオン教会に納められているとエチオピア正教会は伝える。ただし、選ばれた一人の守り手の修道士以外、誰も見ることは許されていない。

『ケブラ・ナガスト』は、王朝が立ってから数十年後に書かれた。つまり血統の主張は、古くからの事実の記録というより、新しい王朝を正統なものに見せるために整えられた物語だったと考えられる。それでもこの物語は、エチオピアの人々の自己像を形づくった。自分たちはイスラエルの古い契約を受け継ぐ民であり、周りがイスラームの国々になっても信仰を守り続けるキリスト教の王国である、という意識である。

ザラ・ヤコブ
ザラ・ヤコブWikimedia Commons Unknown painter 17th century · CC0

ソロモン朝の王たちは、14世紀から15世紀にかけて領土を広げ、周辺のイスラーム教徒の国々とも戦った。ザラ・ヤコブ王のように、教会の改革を進めて信仰を固めた王もいる。だが16世紀には、東のイスラーム教徒の国アダルの指導者アフマド・グラーニュに攻め込まれ、王国は滅亡の淵に立った(アフマド・グラーニュのエチオピア侵攻)。ポルトガルの援軍を得てようやく盛り返したのち、17世紀には都をゴンダールに定めた(ゴンダールの城群)。18世紀の後半からは、皇帝の力が衰え、地方の諸侯が争う「諸侯の時代」が70年以上続く。

19世紀の半ば、混乱を収めて皇帝になったテオドロス2世は、ソロモンの血統とのつながりが薄かったが、それでも自らをその系譜に連ねた。王統の物語は、誰が皇帝になるにしても欠かせない正統性の源だった。1896年にはメネリク2世がアドワの戦いでイタリア軍を破り、エチオピアはアフリカでほとんど唯一、植民地にならずに独立を保った国になる。メネリクという名そのものが、伝説の初代の王にちなんでいた。

アドワの戦いに関わる図版:Adoua 1
アドワの戦いWikimedia Commons The Graphic , from details supplied by survivors · Public domain

最後の皇帝はハイレ・セラシエ1世である。1930年に即位し、1935年のイタリアの侵攻(イタリアのエチオピア侵攻)で一時国を追われたが、のちに帰還した。1955年に改められた憲法には、皇帝の血統はメネリク1世を通じてソロモン王とシバの女王の王朝に連なる、と書かれていた。13世紀に新しい王朝が掲げた物語が、20世紀の憲法の条文に残っていたことになる。

1974年、飢饉と物価の高騰をきっかけに軍が実権を握り、ハイレ・セラシエは廃位された。翌年、拘束されたまま死んだ。1270年から数えて、およそ700年。途中に途切れや傍系の継承をはさみながらも、ソロモンの子孫を名乗る王統は続いた。いまエチオピアは共和国だが、ソロモンとシバの物語は、国の歴史と信仰の語りの中に生き続けている。ジャマイカで生まれたラスタファリの運動が、ハイレ・セラシエを神聖な存在として仰いだのも、この物語の延長にある。

同じ時代のできごと

シャジャル・アッ=ドゥッルの即位AD1250年ボタンと穴AD13世紀公証人AD13世紀モアイの造営1250年バグダードの陥落AD1258年マラーガ天文台AD1259年『立正安国論』AD1260年(文応元年)アイン・ジャールートの戦いAD1260年9月3日
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1270年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →