ガジャ・マダ
概要
マジャパヒトの宰相。群島の統一を果たすまで香辛料を口にしないと誓ったと伝わる。いまインドネシアの国民的な英雄になっている。
所属
マジャパヒト関わったできごと(1)
マジャパヒト王国の隆盛AD1350年頃 · 宰相。群島の統一を誓う本文
生まれた年も、生まれた土地も、家柄も分からない。1290年頃の生まれとされるのは、活躍した時期からの逆算になる。出自は低かったとされ、ジャワ島東部の王国マジャパヒト王国の隆盛で、王の身辺を守る親衛隊の一員として記録に現れる。マジャパヒトは、1293年、ジャワに攻め寄せたフビライ・ハンの軍を巧みに利用して建てられた、まだ若い王国だった。

転機は1319年に来た。王の側近ラ・クティが反乱を起こし、都を占拠した。ガジャ・マダは王ジャヤナガラを連れて都を逃れ、地方の村にかくまった。そのうえで都に戻って様子を探り、反乱が人々の支持を失っているのを見て、反撃を組み立てた。反乱は鎮められ、王は都に戻った。この功で、彼は地方の長官に取り立てられる。この話は後世に書かれた歴史書『パララトン』に見えるもので、細部は脚色を含むとされる。
1330年代、女王トリブワナ・トゥンガデウィのもとで、王国の宰相(マハーパティ)になった。『パララトン』によれば、就任のとき、彼は誓いを立てた。周りの島々を従わせるまで、パラパを口にしない、と。パラパが何かについては、香辛料を入れた食べ物とする説、休息や楽しみを意味するとする説などがあって、はっきりしない。この「パラパの誓い」を記すのも『パララトン』で、マジャパヒトの時代より100年以上あとに書かれたものだ。

宰相として、彼は周りの島々へ軍を送った。バリ島への遠征はよく知られている。1350年に王位を継いだハヤム・ウルクの時代、マジャパヒトは最も大きくなり、1368年に中国で成立した明にも、のちに使節を送っている。宮廷の詩人プラパンチャが1365年に書いた詩『ナーガラクルターガマ』は、王国の支配下にあるとする土地を並べていて、そこにはスマトラ、カリマンタン(ボルネオ)、マレー半島、スラウェシから、ニューギニアの西の端までが含まれる。ただし、これは朝貢や交易の関係を「支配」と書いたものと見るのが妥当とされる。実際に役人を置いて治めていたのは、ジャワとその近くに限られていたと考えられている。
晩年に、大きな事件がある。1357年、ハヤム・ウルクは西ジャワのスンダ王国の王女を妃に迎えることになり、スンダの王が娘を連れてブバトという地に来た。ガジャ・マダはこれを対等な婚礼ではなく、王女を貢ぎ物として差し出す儀礼にするよう求めたとされる。スンダの側は拒み、王と一行はその場で戦って全滅した。王女も自ら命を絶ったと伝えられる。この「ブバトの戦い」のあと、ガジャ・マダの立場は弱まったとされる。スンダの側から見れば、彼は名誉を踏みにじった人物として記憶され、この恨みは西ジャワで長く語り継がれた。

1364年に死去した。宰相の職は、彼の死後、一人では埋められず、いくつかに分けられたと伝えられる。
20世紀、インドネシアが独立を目指すなかで、彼は群島の統一を最初に夢見た人物として掘り起こされた。オランダの植民地のもとでばらばらにされた島々を一つの国にする、という独立運動の目標に、彼の誓いが重ねられたのだ。1949年にジョグジャカルタに作られた国立大学はガジャ・マダ大学と名付けられ、1976年に打ち上げられた国内初の通信衛星は、誓いにちなんで「パラパ」と名付けられた。いま広く知られるふくよかな顔の肖像は、マジャパヒトの都の跡から出た土の人形の頭をもとに、20世紀の政治家ムハンマド・ヤミンが彼の顔として広めたもので、本人を写したものかは分からない。

統一の英雄という像は、独立後の国づくりのなかで作られた面がある。ブバトの事件をどう語るか、外の島々を「支配した」と言ってよいのか。ガジャ・マダの評価には、ジャワとそれ以外の島々との関係が、いまも映っている。