黎朝の大越
概要
明の支配を20年で終わらせた。以後、独自の法典を持つ国として続く。
場所
21.03°N 105.83°E · ベトナム
本文
ベトナムの北部は、10世紀に中国から自立してから、李朝・陳朝と自前の王朝を重ねてきた。陳朝は13世紀に三度攻めてきたモンゴル軍を退けている(白藤江の戦い(元寇撃退))。ところが14世紀の末、陳朝の外戚だった胡季犛が王位を奪うと、明の永楽帝はこれを口実に大軍を送り込んだ。1407年、胡朝は滅び、北部ベトナムは「交趾」として明の一つの省に組み込まれた。
明の支配は、それまでの中国の侵入とは性格が違った。役所を置いて戸籍を作り、重い税と労役を課し、金や香木、象牙を取り立てた。学者や職人は中国へ連れて行かれ、ベトナムで書かれた書物は集めて運び去られたり焼かれたりしたと伝えられる。人々に中国風の服と髪型を求めたともいう。各地で反乱が起きたが、どれも鎮められた。

1418年、北中部の山地ラムソン(藍山)の豪族、黎利が兵を挙げた。はじめは兵も食糧も足りず、山中に逃げ込んで飢えに耐える時期が何度もあった。黎利のもとには、文人の阮廌が加わり、明の将に送る降伏の勧めや交渉の文書を書いた。力ずくだけでなく、相手の兵が戦う気をなくすように言葉で攻めるのが、この反乱のやり方だった。
形勢は1420年代に入って変わる。黎利の軍は南の山地から北へ攻め上がり、明軍を東京(今のハノイ)の城に追い込んだ。1427年、明は救援の大軍を送ったが、黎利はその先鋒を国境に近い支稜(チーラン)で待ち伏せ、総大将の柳昇を討ち取った。後続の軍も崩れ、城に籠もっていた明の将は講和を受け入れた。黎利は降った明兵を殺さず、船と馬を与えて国へ帰らせている。20年におよんだ明の支配は、こうして終わった。

1428年、黎利は東京で即位し、国の名を大越とした(大越)。のちの人は、10世紀の黎桓の王朝と区別して、こちらを後黎朝と呼ぶ。即位にあたって阮廌が書いたのが『平呉大誥』である。明を「呉」と呼び、戦いの経過と明の非道をつづったうえで、我が大越はもとより文化の国であり、山河の境も風俗も北とは違う、と述べる。中国とは別の国であることを、中国の文字と文体で、中国の古典を引きながら主張している。この文は、ベトナムでは長く「第二の独立宣言」と呼ばれてきた。
勝ったあとも、黎利は明と縁を切ったわけではなかった。すぐに使いを送って謝罪の形をとり、朝貢を続けた。明も再び大軍を送る余力はなく、やがて黎氏の王を安南の国王として認めた。国の中では皇帝を名乗り、外に向けては明の冊封を受ける。大国と陸続きで向き合う国が、名を捨てて実を取るやり方で、こののちのベトナムの王朝もこれを受け継いだ。

ハノイの中心にある還剣湖には、この時代の伝説が残る。黎利は戦いのあいだ神から授かった剣を使い、勝ったのち湖で舟遊びをしていると大きな亀が現れて剣を求めたので、返した、という。史実ではなく後に語られた話だが、湖の名と亀の祠は今も町の名所になっている。
王朝が最も栄えたのは、15世紀後半の黎聖宗の時代である。科挙を整えて儒学を学んだ官僚に政治を担わせ、全国の地図と戸籍を作らせた。1471年には南のチャンパの都を落とし(ヴィジャヤの陥落)、領土を大きく南へ広げた。この時代にまとめられた法典(国朝刑律、洪徳律とも呼ばれる)は、唐や明の律を手本にしながら、娘にも親の財産を相続させる規定や、妻の財産を守る規定を持っていた。中国の律には無い条文で、ベトナムの村の慣習を取り込んだものとされる。

一方で、建国の功臣たちの運命は暗かった。阮廌は1442年、王の急死の責めを負わされて一族ごと処刑された。のちに名誉は回復され、今ではベトナムを代表する文人として称えられている。
16世紀に入ると、王朝は武将の莫氏に一度王位を奪われる。黎氏の王は復位したが、実権は北の鄭氏と南の阮氏に握られ、王は名だけの存在になった。それでも王朝の名は1789年まで続き、やがて南北を統一した阮朝へ引き継がれる(阮朝の成立)。制度は中国から取り入れ、独立は中国の言葉で主張する。その二重の構えは、黎朝のあとのベトナムにも長く残った。