タハルカ
概要
ナイル上流のクシュから出て、エジプト全土を治めた。旧約聖書にも名が出てくる。アッシリアに追われて南へ退く。
関わったできごと(1)
クシュ王国のエジプト支配BC747年 · この王朝の最後の王本文
クシュ(ヌビア)から出て、エジプト全土を治めた王になる。エジプト史では第25王朝の王に数えられる。生年は分からない。

クシュの王国は、ナイルの第4急流に近いナパタを中心に栄えていた。長くエジプトに支配され、エジプトの神アメンを篤く信じてきた国である。紀元前8世紀の後半、分裂して弱ったエジプトに、クシュの王ピイが北上して攻め入り、その後継者たちがエジプト全土を治めた(クシュ王国のエジプト支配)。タハルカはピイの息子とされる。
本人が残した碑文によれば、20歳のころ、前の王に呼ばれて兵とともに北へ下った。その宮廷で育ち、紀元前690年に後を継いで、メンフィスで王冠を受けた。故郷の母がはるばる北へ下り、王となった息子に会いに来たことも碑文は語っている。

治世の前半は繁栄した。治世6年目、ナイルの増水が例年にない高さに達しながら、町を押し流すことなく田を潤し、豊作になった、と碑文は記す。王はこれを、神が自分を王に選んだ証しとして誇った。ナイルの水位を刻んだ記録にも、この時期の高い増水が残る。
建築の王でもあった。テーベのカルナック神殿には、彼の建てた巨大な柱廊の柱が一本、いまも立っている。故郷ヌビアではジェベル・バルカルの聖なる山の神殿を造り直し、カワやサナムにも神殿を建てた。古王国時代の様式を手本に、古い時代の文字や美術をよみがえらせる動きも、この王朝の特徴である。ヌビアの王たちは、自分たちこそ古いエジプトの正しい継承者だと考えていた。テーベでは、アメン神に仕える「神の妻」という女性の神官の位に、王家の娘を養女として送り込み、宗教の中心を押さえた。タハルカの娘アメニルディス2世もその位を継ぐ者になった。カワの神殿にあった、タハルカの顔をした花崗岩のスフィンクスは、いま大英博物館に置かれている。ライオンの体に、ヌビアの王の顔立ちと、二匹の蛇の額飾りを付けた姿である。

旧約聖書に名が出てくる。列王記とイザヤ書に、アッシリアのセンナケリブに攻められたユダの王ヒゼキヤを助けようとした「クシュの王ティルハカ」として。ただしこの遠征は紀元前701年のことで、タハルカはまだ王ではなかった。王子として軍を率いていたのか、後の書き手が名の知られた王の名を当てはめたのか、説が分かれている。
最大の敵は、そのアッシリアだった(新アッシリア帝国)。紀元前674年、アッシリア王エサルハドンの最初の侵攻を、タハルカは国境で退けた。だが紀元前671年、エサルハドンは再び攻め込み、メンフィスを落とした(アッシリアのエジプト征服)。タハルカは傷を負って南へ逃れ、妃と皇太子は捕らえられてアッシリアへ連れ去られた。エサルハドンは勝利の碑に、ひざまずく捕虜の姿を刻ませている。

エサルハドンが2年後に遠征の途中で死ぬと、タハルカは北へ戻ってメンフィスを取り返した。だが新しい王アッシュルバニパルの軍が来て、再び追われる。デルタの小王たちは、タハルカとアッシリアのあいだで寝返りを繰り返した。エジプトの支配は、彼の代で事実上終わる。
ヌビアへ戻り、紀元前664年に死んだ。父祖の墓地ではなく、ナイルの対岸の新しい墓地ヌリに、ヌビアで最大のピラミッドを建てて葬られた。跡を継いだタヌトアメンはもう一度エジプトに攻め入ったが、アッシリアはテーベを略奪して応えた。エジプトはやがてプサメティコス1世のもとで一つになる(プサメティコス1世のエジプト再統一)。

ヌビアには、エジプトより多くのピラミッドがある。クシュの王たちはエジプトを失った後も、ナパタで、のちには南のメロエで(クシュのメロエ遷都)、ピラミッドを築き、エジプト風の王の称号を使い続けた。その王国は、さらに千年近く続いている。
長く、エジプト史の「異民族の王朝」の一つとして扱われてきたが、近年はアフリカの王国がエジプトを治めた時代として見直されている。黒い肌の王として描かれたタハルカの像は、ヌビアの誇りとして、いまスーダンの博物館に立っている。