物語

『歴史序説』で読む王朝の寿命

出てくるできごと AD1258 – AD1370
できごと 4人物 1国 2
この物語に出てくる図版:Bagdad1258
この物語に出てくるバグダードの陥落から。Bagdad1258 Wikimedia Commons Sayf al-vâhidî et al. · Public domain

概要

14世紀の北アフリカで、社会には法則があると考えた人がいた。王朝はなぜ三代で衰えるのか。

この物語について

王朝は、なぜ生まれ、なぜ衰えるのか。14世紀の北アフリカで、その問いに、道徳ではなく法則で答えようとした人がいた。

チュニスのイブン・ハルドゥーン像
イブン・ハルドゥーンWikimedia Commons Kassus · CC BY 2.5

『歴史序説(ムカッディマ)』(イブン・ハルドゥーン、1377年)は、大きな歴史書の序論として書かれ、序論のほうが本体より読まれることになった。著者のイブン・ハルドゥーンは、1332年にチュニスで生まれた。家はもともとアラビア半島に起源を持ち、イベリア半島のセビーリャに長く住んだのち、キリスト教徒の国々の南下を逃れて北アフリカへ移ってきた家系だった。代々、学者と役人を出す家である。本体の歴史書は『イバルの書』と呼ばれる。イバルとは、教訓、戒めを意味する言葉で、過去の出来事から学ぶための書という意味がこめられている。

若いイブン・ハルドゥーンは、コーランと法学と哲学を学んだ。だが1348年から翌年にかけて、黒死病がチュニスを襲い、両親と多くの師を一度に失った。のちに彼は、この疫病が都市を空にし、王朝を弱らせたことを、世界全体が姿を変えたかのようだったと振り返っている。

その後の半生は、宮廷から宮廷への渡り歩きだった。当時の北アフリカでは、チュニスのハフス朝、フェズのマリーン朝などの王朝が覇権を争い、王位をめぐる陰謀が絶えなかった。イブン・ハルドゥーンは書記や大臣として仕え、ときに投獄され、ときに主君を替えた。イベリア半島に残るイスラームの国、グラナダのナスル朝にも仕え、カスティーリャの王のもとへ使節として赴いたこともある。祖先の住んだセビーリャの町を、彼は外交官として訪れた。自伝によれば、カスティーリャの王は、祖先の土地を返すから自分に仕えないかと誘ったが、彼は断ったという。山地や砂漠の部族と交渉する役目も多く、遊牧の人々の暮らしと力を間近に見た。

1375年、四十代の前半で、彼は政治の世界から身を引いた。いまのアルジェリアの内陸にある城に家族とともにこもり、4年ほどを過ごす。そこで書き始めた歴史書の序論が、この本である。序論の最初の草稿は、5か月ほどで書き上げられたと本人は記している。

中心にあるのは「アサビーヤ」という考え方になる。集団を内側から結びつける力で、連帯とも団結心とも訳される。血のつながりや、生死を共にする暮らしの中で育つ、仲間のために命を懸ける気持ちである。

本の筋はこうなる。砂漠や山で厳しく暮らす集団は、アサビーヤが強い。その力で都市を征服し、王朝を立てる。都市に住み、豊かになると、贅沢と分業が進み、結びつきは緩む。三代から四代で王朝は衰え、外から来た別の集団に倒される。そしてまた同じことが起きる。

本はこれを、もっと細かく描く。建国の世代は、砂漠の厳しさと仲間との結びつきを覚えている。次の世代は、親の姿を見て育つが、自分では苦労を知らない。三代目は、都市の安楽しか知らず、王朝を守る力を雇い兵に頼るようになる。一代を40年ほどと見れば、王朝の寿命は120年ほどになる、と彼は書いた。

彼の目の前には、その実例があった。11世紀には、サハラの遊牧のベルベル人が宗教運動のもとに結束してムラービト朝を興し、モロッコからイベリア半島までを支配した。12世紀には、アトラス山地のベルベル人がムワッヒド朝を立てて、それに取って代わった。どちらも、厳しい土地で暮らす集団が、宗教の呼びかけで結束を強め、豊かな都市を征服した例である。イブン・ハルドゥーンは、宗教が人々を一つにまとめるとき、アサビーヤは何倍にも強まると論じた。7世紀のアラブの人々がイスラームのもとで一つになり、短い間に広大な地域を征服したことも、その例として挙げられている。

税についての観察も鋭い。王朝の初めには税の率が低く、人々がよく働くので、税収はかえって多い。王朝の終わりには、贅沢と軍の費用をまかなうために税の率を上げ、人々が働く意欲を失うので、税収は減っていく。この一節は、20世紀のアメリカで減税を説く政治家が引用したことで、思いがけず名を知られることになった。

著者はこれを、道徳の話ではなく、繰り返し起きる仕組みとして書いた。社会そのものを対象にする学問を作る、と宣言している。彼はそれを、人が集まって住む営みについての学と呼んだ。社会学の先駆と呼ばれるのは、そのためになる。歴史家は伝えられた話をそのまま書き写すのではなく、それが人間の社会の性質に照らしてありうることかを吟味しなければならない、とも彼は説いた。大軍の数の誇張を、補給の常識から疑ってみせる箇所がある。学問や技芸は、人が多く集まる豊かな都市でこそ育つ、という観察もある。王朝が衰え、都市が寂れると、職人の技も学問も途絶えていく。彼が生まれ育った北アフリカの町々が、まさにそうした盛衰を繰り返していた。

王朝が滅びる例は、彼の目の前にいくらでもあった。1258年のバグダードの陥落で、500年続いたアッバース朝はモンゴルの軍に倒された。彼の歴史書の本体は、北アフリカのベルベル人の諸王朝の興亡を詳しく記しているほか、サハラの南の国々にも筆を伸ばし、マリの王の名を順に伝えている。黄金を携えてカイロを通ったマンサ・ムーサの巡礼の話も、そこに出てくる。砂漠を越える交易と、砂漠の民が都市を築く循環は、彼の理論の舞台そのものだった。

マンサ・ムーサの巡礼に関わる図版:Catalan Atlas BNF Sheet 6 Mansa Musa (cropped)
マンサ・ムーサの巡礼Wikimedia Commons attributed to Abraham Cresques · Public domain

1382年、イブン・ハルドゥーンはエジプトへ移り、マムルーク朝の都カイロで暮らした。学院で教え、マーリク派の法学の大法官に何度も任じられた。家族を呼び寄せる途中、妻子の乗った船が難破し、全員を失うという不幸にも見舞われている。法官としての彼は厳格で、縁故や賄賂を嫌い、それがかえって敵を作って、何度も職を解かれた。晩年には自分の生涯を振り返る自伝も書き残している。

1401年、ティムールの軍がシリアに攻め入り、ダマスクスを包囲した。エジプトの君主に従ってダマスクスにいたイブン・ハルドゥーンは、城壁から綱で降りて、城外のティムールの陣営を訪ねたと自伝に書いている。会見は何度か重ねられ、ティムールは北アフリカの地理について彼に尋ね、彼はのちにそれを書き物にして献じた。ティムールは、まさに強いアサビーヤで草原から興った征服者だった。理論を書いた人が、その理論の生きた見本と向き合ったことになる。ティムール帝国の拡大が広がる中で、ダマスクスは略奪された。

ダマスクスからカイロに戻ったイブン・ハルドゥーンは、再び法官を務め、1406年にカイロで死んだ。その後の数世紀、彼の名はアラブ世界でもそれほど広くは読まれなかったが、オスマン帝国の知識人が注目し、19世紀にはヨーロッパで翻訳されて評判になった。オスマン帝国では、17世紀以後、帝国の衰えを論じる学者たちが、彼の王朝の盛衰の理論を手がかりにした。イギリスの歴史家トインビーは、この本を同じ種類の作品の中で最も偉大なものだと評した。

いまも、国や組織が豊かさの中で結束を失っていく話をするとき、この本が引かれる。創業の世代と、受け継いだ世代の違いという主題は、王朝だけのものではないからである。

この物語は、本が扱った時代と、著者自身が生きたできごとを並べたものになる。本文は写していない。

動画(1)

Who is Ibn Khaldun ? | House of Wisdom | EP 2TRT World14世紀に社会の法則を探した歴史家の生涯と仕事

この物語が起きた場所

筋(7)

年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。

  1. マムルーク朝国AD1250年 – AD1517年(オスマンによる征服)奴隷として買われ、兵として育てられた者たちの国。血縁ではなく実力で次のスルタンが決まる。モンゴルを止め、十字軍を追い出し、香辛料の道を握って270年続いた。
  2. バグダードの陥落できごとAD1258年王朝はなぜ滅びるかモンゴル軍がアッバース朝を滅ぼした。イスラム世界の学問の中心が失われる。バグダード
  3. マンサ・ムーサの巡礼できごとAD1324年砂漠と都市の循環マリ王が大量の金を配りながらメッカへ向かい、通り道の金相場を崩したと伝わる。トンブクトゥ
  4. イブン・ハルドゥーン人物AD1332年 – AD1406年著者王朝の興亡を連帯意識の盛衰で説明した。歴史を法則で捉えようとした最初期の人。
  5. 黒死病できごと1347年両親と師を失ったヨーロッパの人口の3分の1が死んだ。働き手が減って農奴の立場が上がり、封建の仕組みが緩む。
  6. ティムール帝国の拡大できごと1370年城壁の外で会見した相手中央アジアから西アジア・インドまで席巻した。サマルカンドには各地から職人と学者が集められる。サマルカンド
  7. ティムール朝国AD1370年(ティムールのサマルカンド掌握) – AD1507年(ウズベクによるヘラート占領)モンゴルの後継を名乗りながら、チンギスの血を引かないので自らはハンを称さなかった。サマルカンドを飾り、征服の先々で職人だけは連れ帰った。

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