シンガポールの独立

概要
マレーシアから追い出される形で独立した。資源のない小島が、一世代で先進国になる。
場所
1.35°N 103.82°E · シンガポール
関わった人(1)
リー・クアンユーAD1923年9月16日–AD2015年3月23日 · 初代首相本文
1965年8月9日の朝、マレーシアの議会は、シンガポールをマレーシア連邦から切り離す憲法の改正を、全会一致で可決した。シンガポール選出の議員は出席していなかった。同じ日、シンガポールは独立を宣言した。望んだ独立ではなかった。マレーシアから追い出される形の独立だった。
シンガポールは、1819年にイギリスのスタンフォード・ラッフルズが交易の拠点を築いて以来(ラッフルズのシンガポール)、イギリスの植民地として栄えた。マレー半島の先にある小さな島で、中国や南アジアから多くの移民が渡ってきた。人口の4分の3ほどは華人で、ほかにマレー人とインド系の人々が暮らす。1942年には日本軍に占領され(シンガポール陥落)、3年半の占領の間に、多くの華人が殺された。

戦後、シンガポールは自治を求め、1959年に内政の自治権を得た。首相となったのは、ケンブリッジで法律を学んだ35歳のリー・クアンユーである。人民行動党を率いるリーは、党の中の共産主義に近い勢力と激しく対立していた。資源も広い土地も無い島が一つの国として生きていけるとは、リー自身も考えていなかった。マレー半島と一つになり、その後背地と市場に頼るほかない、というのが彼の考えだった。
1963年9月、マラヤ連邦とシンガポール、ボルネオ島のサバとサラワクが合わさって、マレーシアが生まれた。だが合併は、はじめから緊張をはらんでいた。インドネシアのスカルノはマレーシアの成立に反対して「対決」を宣言し、武力で揺さぶりをかけた。そして連邦の中では、マレー人と華人の関係が問題になった。

マレーシアの憲法は、マレー人に特別な地位を認め、公務員の採用や土地、奨学金などでマレー人を優遇していた。華人の多いシンガポールのリーは、人種に関わりなくすべての国民を平等に扱う「マレーシア人のマレーシア」を唱えた。人民行動党はマレー半島の選挙にも候補を立て、連邦の政権を握るマレー人の政党と正面から争った。1964年には、シンガポールで華人とマレー人の大きな衝突が二度起き、死者が出た。
連邦の首相トゥンク・アブドゥル・ラーマンは、このままでは人種の対立が国を壊すと考え、シンガポールを切り離すことを決めた。8月7日、リーは分離の合意文書に署名した。

独立の日の記者会見で、リーは途中で言葉を詰まらせ、涙を流した。私にとってこれは苦悩の瞬間だ、私は生涯を通じて二つの地域の合併と統一を信じてきた、と彼は語った。会見はしばらく中断された。
新しい国の条件は厳しかった。面積は東京23区とほぼ同じ。人口はおよそ190万。資源は無く、飲み水さえ、海峡の向こうのマレーシアのジョホール州から買っていた。防衛の柱だったイギリス軍も、数年後には撤退を決める。周りの大国との関係も不安定だった。

リーと仲間たちは、生き残るために国を作り変えた。外国の企業を呼び込んで工場を建てさせ、港と、のちには金融に力を注いだ。公営の住宅を大量に建て(シンガポールの住宅開発庁)、やがて国民の大部分が公営住宅に住むようになる。英語を共通の言葉とし、それぞれの民族の言葉もあわせて学ばせた。汚職を厳しく取り締まり、男性には兵役を課した。1967年には、周辺の国々とともに東南アジア諸国連合を作っている(ASEANの設立)。
一世代のうちに、シンガポールは豊かな国になった。一人あたりの国民所得は、やがてかつての宗主国イギリスを上回る。水も、雨水をためる仕組みや、下水を浄化して飲めるまでに戻す技術、海水の淡水化で、自前でまかなえる量を増やしていった。
その代償として、政治の自由には厳しい制限が続いた。人民行動党は独立以来、一度も政権を失っていない。裁判を経ずに人を拘束できる法律が使われ、政府に批判的な新聞や政治家は、名誉毀損の訴えなどで追いつめられた。リーは1990年まで31年間首相を務め、2015年、独立50年の年に91歳で亡くなった。豊かさと引き換えに自由を制限する国のあり方を、いまもシンガポールは問われ続けている。