できごと

シンガポールの独立

Independence of Singapore
AD1965年8月9日
重要度 4
シンガポールの独立に関わる図版:Agreement relating to the separation of Singapore from Malaysia as an independent and sovereign State
Agreement relating to the separation of Singapore from Malaysia as an independent and sovereign State Wikimedia Commons The Government of Malaysia and the Government of Singapore . · Public domain

概要

マレーシアから追い出される形で独立した。資源のない小島が、一世代で先進国になる。

場所

シンガポール
1.35°N 103.82°E · シンガポール

関わった人(1)

リー・クアンユーAD1923年9月16日–AD2015年3月23日 · 初代首相

本文

1965年8月9日の朝、マレーシアの議会は、シンガポールをマレーシア連邦から切り離す憲法の改正を、全会一致で可決した。シンガポール選出の議員は出席していなかった。同じ日、シンガポールは独立を宣言した。望んだ独立ではなかった。マレーシアから追い出される形の独立だった。

シンガポールは、1819年にイギリスのスタンフォード・ラッフルズが交易の拠点を築いて以来(ラッフルズのシンガポール)、イギリスの植民地として栄えた。マレー半島の先にある小さな島で、中国や南アジアから多くの移民が渡ってきた。人口の4分の3ほどは華人で、ほかにマレー人とインド系の人々が暮らす。1942年には日本軍に占領され(シンガポール陥落)、3年半の占領の間に、多くの華人が殺された。

1965年8月10日付『ストレーツ・タイムズ』紙1面「シンガポールは出ていった」
1965年8月10日付『ストレーツ・タイムズ』紙1面「シンガポールは出ていった」Wikimedia Commons The Straits Times . · Public domain

戦後、シンガポールは自治を求め、1959年に内政の自治権を得た。首相となったのは、ケンブリッジで法律を学んだ35歳のリー・クアンユーである。人民行動党を率いるリーは、党の中の共産主義に近い勢力と激しく対立していた。資源も広い土地も無い島が一つの国として生きていけるとは、リー自身も考えていなかった。マレー半島と一つになり、その後背地と市場に頼るほかない、というのが彼の考えだった。

1963年9月、マラヤ連邦とシンガポール、ボルネオ島のサバとサラワクが合わさって、マレーシアが生まれた。だが合併は、はじめから緊張をはらんでいた。インドネシアのスカルノはマレーシアの成立に反対して「対決」を宣言し、武力で揺さぶりをかけた。そして連邦の中では、マレー人と華人の関係が問題になった。

国家晩餐会で祝杯を挙げるリー・クアンユー(1975年)
リー・クアンユーWikimedia Commons White House Photographic Office. 1974-1977 · Public domain

マレーシアの憲法は、マレー人に特別な地位を認め、公務員の採用や土地、奨学金などでマレー人を優遇していた。華人の多いシンガポールのリーは、人種に関わりなくすべての国民を平等に扱う「マレーシア人のマレーシア」を唱えた。人民行動党はマレー半島の選挙にも候補を立て、連邦の政権を握るマレー人の政党と正面から争った。1964年には、シンガポールで華人とマレー人の大きな衝突が二度起き、死者が出た。

連邦の首相トゥンク・アブドゥル・ラーマンは、このままでは人種の対立が国を壊すと考え、シンガポールを切り離すことを決めた。8月7日、リーは分離の合意文書に署名した。

シンガポール側から見るコーズウェイ。対岸はジョホールバル。コーズウェイ上には3本の水道管が設置されている。
シンガポール側から見るコーズウェイ。対岸はジョホールバル。コーズウェイ上には3本の水道管が設置されている。Wikimedia Commons Lionel Lim · CC BY 2.0

独立の日の記者会見で、リーは途中で言葉を詰まらせ、涙を流した。私にとってこれは苦悩の瞬間だ、私は生涯を通じて二つの地域の合併と統一を信じてきた、と彼は語った。会見はしばらく中断された。

新しい国の条件は厳しかった。面積は東京23区とほぼ同じ。人口はおよそ190万。資源は無く、飲み水さえ、海峡の向こうのマレーシアのジョホール州から買っていた。防衛の柱だったイギリス軍も、数年後には撤退を決める。周りの大国との関係も不安定だった。

シンガポール国会議事堂
シンガポール国会議事堂Wikimedia Commons TteckK . · Public domain

リーと仲間たちは、生き残るために国を作り変えた。外国の企業を呼び込んで工場を建てさせ、港と、のちには金融に力を注いだ。公営の住宅を大量に建て(シンガポールの住宅開発庁)、やがて国民の大部分が公営住宅に住むようになる。英語を共通の言葉とし、それぞれの民族の言葉もあわせて学ばせた。汚職を厳しく取り締まり、男性には兵役を課した。1967年には、周辺の国々とともに東南アジア諸国連合を作っている(ASEANの設立)。

一世代のうちに、シンガポールは豊かな国になった。一人あたりの国民所得は、やがてかつての宗主国イギリスを上回る。水も、雨水をためる仕組みや、下水を浄化して飲めるまでに戻す技術、海水の淡水化で、自前でまかなえる量を増やしていった。

その代償として、政治の自由には厳しい制限が続いた。人民行動党は独立以来、一度も政権を失っていない。裁判を経ずに人を拘束できる法律が使われ、政府に批判的な新聞や政治家は、名誉毀損の訴えなどで追いつめられた。リーは1990年まで31年間首相を務め、2015年、独立50年の年に91歳で亡くなった。豊かさと引き換えに自由を制限する国のあり方を、いまもシンガポールは問われ続けている。

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