ナウルの燐鉱石
概要
一時は国民一人当たりの所得が世界有数になった。掘り尽くした後、島の8割が荒地として残る。
場所
-0.52°N 166.93°E · ナウル共和国
本文
ナウルは、赤道のすぐ南の太平洋にぽつんと浮かぶ、周囲およそ19キロ、面積21平方キロほどの島だ。東京の山手線の内側の3分の1ほどの広さしかない。周りを珊瑚礁が囲み、海岸沿いの細い平地に人が住み、内陸はやや高い台地になっている。この台地の下に、良質の燐鉱石が眠っていた。
燐鉱石は、植物の育ちに欠かせない燐を多く含む岩で、化学肥料の原料になる。ナウルのものは、長い年月の間に海鳥の糞が積もり、その燐が下の珊瑚の石灰岩にしみ込んでできたものと考えられている。19世紀には、南米の島々の鳥の糞がそのまま肥料として世界中に運ばれ(鳥の糞の時代)、骨や燐鉱石に硫酸をかけて作る過燐酸石灰の肥料も広まっていた(骨と硫酸)。人口が増え続ける世界は、畑を肥やす燐を求めていた。

ナウルは1888年にドイツの植民地に組み込まれた。1900年、太平洋で燐鉱石を探していた会社の社員アルバート・エリスが、シドニーの事務所でドアの押さえに使われていたナウルの岩を調べ、それが質の高い燐鉱石だと気づいた、という話が伝わっている。1906年ごろから採掘が始まり、鉱石は船でオーストラリアやニュージーランドの農場へ運ばれた。
第一次世界大戦でドイツが敗れると、ナウルはイギリス、オーストラリア、ニュージーランドの3国の委任統治領になり、3国が作った公社が採掘を独占した。鉱石は安い値で3国の農家に渡り、オーストラリアやニュージーランドの牧場と麦畑を肥やした。ナウルの人々に入る分け前は、わずかだった。第二次世界大戦中には日本軍が島を占領し、住民の多くをミクロネシアのトラック諸島(いまのチューク)へ移した。飢えと病で、帰らなかった人も少なくない。

1968年、ナウルは独立した。人口数千人の、世界で最も小さな共和国の一つである。1970年には燐鉱石の事業を買い取り、その収入を自分たちのものにした。収入は大きかった。1970年代から80年代にかけて、ナウルの一人当たりの所得は、世界でも有数の水準になった。
暮らしは一変した。所得税は無く、医療も教育も住宅の電気も無料で、若者は外国の学校へ国費で留学した。働くのは外から来た労働者で、ナウルの人々の多くは公務員として給料を受け取った。島の一周道路を走るためだけに、何台も車を買う家があったという話も残っている。食べ物は輸入の加工食品が中心になり、肥満と糖尿病が急増して、ナウルは世界で最も肥満の多い国の一つになった。
政府は、鉱石が尽きる日に備えて、収入の一部を信託基金に積み立てた。基金は世界各地の不動産や事業に投資した。オーストラリアのメルボルンには52階建ての高層ビルが建ち、ロンドンでは基金が出資したミュージカルが上演された。だが、投資の多くはずさんな運用や不正で失敗し、基金は1990年代から2000年代にかけて大半を失った。
その間にも、燐鉱石は掘り尽くされていった。上の層の鉱石の採掘は、20世紀の終わりまでにほぼ終わった。鉱石を掘り取ったあとには、珊瑚の石灰岩の柱が墓石のように林立する荒れ地が残った。高さ数メートルから十数メートルの石の柱の間は、歩くのも難しい。島の面積のおよそ8割がこの荒れ地で、土も無く、木も育たず、畑にもできない。人々は海岸沿いの細い帯に押し込められて暮らしている。
ナウルは、委任統治の時代に土地を荒らしたままにした責任を問い、1989年にオーストラリアを国際司法裁判所に訴えた。1993年、オーストラリアが補償金を払うことで和解した。だが、失われた台地を元に戻す事業は、ほとんど進んでいない。
収入の道を失ったナウルは、生き延びる方法を探した。1990年代には、規制のゆるい銀行の免許や旅券を売り、外国からの資金洗浄の温床と批判された。2001年からは、オーストラリアが海を渡って来る難民や移民を国外で収容するための施設を島に受け入れ、その見返りの資金が国の大きな収入になった。施設は一度閉じられたのち2012年に再び開かれ、収容された人々の扱いをめぐって国際的な非難を浴びた(難民条約)。
人々の暮らしは、いまも外からの援助と、残った鉱石の再採掘、漁業の入漁料などで支えられている。地球の温暖化による海面の上昇も、海岸の細い帯に住む人々にとっては、新しい脅威になっている(ツバルと海面上昇)。
20世紀の世界の食べ物の増産を支えた化学肥料の歴史には、空気中の窒素から肥料を作るハーバー・ボッシュ法のような技術の勝利もあれば、ナウルのような島の犠牲もあった。一つの資源にすべてを頼り、それを掘り尽くした国が、その後に何を残されるのか。ナウルは、その最も極端な例として語られている。