アユタヤ朝の成立
概要
交易で栄え、400年続いた。日本人町も置かれ、山田長政が仕えたのはこの王朝。
場所
14.35°N 100.57°E · タイ
本文
チャオプラヤー川に、北からロッブリー川、東からパーサック川が流れ込む。その合流点に広い中州があり、アユタヤはそこに築かれた。三方を川が流れ、残る一方に水路を掘って、都は完全な島になった。陸からは攻めにくく、船に乗れば川を下ってタイ湾へ、そこから外洋へ出られる。守りと交易の両方に向いた場所だった。
建てたのはウートーンという名で伝わる王で、即位してラーマーティボーディー1世を名乗った。伝統的な年代では1351年になる。王の出自ははっきりしない。中国系の商人の家とする説、近隣の王家の婿とする説などがあり、決め手は無い。当時この地域にはいくつかのタイ系の国が並び立っていた。北にはスコータイ朝(スコータイ朝とタイ文字)があり、東にはクメールのアンコールがまだ力を持っていた。アユタヤは両方から制度と文化を取り込みながら大きくなる。王を神に近い存在として飾る儀礼や宮廷の言葉には、クメールの影響が濃い。

15世紀にはスコータイを従え、アンコールにも兵を出した。中部の平野でとれる米と、川を下ってくる森の産物を集めて外へ売る。王室が交易を握り、自ら船を出し、倉を持った。染料になる蘇木、鹿皮、象牙、錫、米が主な品になる。
16世紀に入ると、西のビルマとの戦いが続く。1569年、タウングー朝のバインナウンに都を落とされ、アユタヤはしばらくビルマに従った。独立を取り戻したのはナレースワン王で、1584年に臣従を絶ち、1593年には象に乗った一騎打ちでビルマの王子を討ったと伝えられる。この話はタイでは国の誇りとして語り継がれているが、細部には後世の脚色も混じっているとされる。

17世紀が交易の盛期になる。中国、インド、ペルシア、アラブ、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランスの商人が来た。外国人には都の外に居住区が与えられ、それぞれの言葉と慣習で暮らした。ポルトガル人の町、オランダの商館、中国人の町、ムスリムの町が川沿いに並んだ。
日本人町もあった。朱印船で渡った商人や、関ヶ原のあとに主を失った浪人、迫害を逃れたキリシタンが住み、17世紀前半には千人から千五百人ほどいたとされる。日本人は傭兵としても重んじられた。その一人が山田長政で、ソンタム王に仕えて日本人の部隊を率い、高い官位を得て、のちに南部のリゴール(ナコーンシータマラート)の太守になった。1630年にその地で死ぬ。毒殺されたとも伝わる。王位をめぐる争いに巻き込まれたもので、そのあと実権を握った新しい王は日本人町を焼き払った。町はのちに再建されるが、日本が海外との往来を絞ったため新しい人は来なくなり、しだいに消えていった。

ナーラーイ王(在位1656〜1688年)の時代に、外交はいちばん華やかになる。ギリシア人の冒険家ファルコンを重臣に取り立て、フランスのルイ14世と使節を交わした。オランダの圧力をフランスで抑えようとしたものだが、フランス兵の駐留を許したことが宮廷の反発を招いた。1688年、王の死の前後に政変が起こり、ファルコンは処刑され、フランス兵は追い出された。以後アユタヤはヨーロッパとの付き合いを絞るが、断ちはしなかった。どこか一つの国に寄りかからず、相手を競わせて従属を避ける。この流儀は、のちのバンコクの王朝にも受け継がれる。
終わりは1767年に来た。ビルマのコンバウン朝の軍が一年以上都を囲み、ついに落とした(アユタヤの陥落)。寺院も宮殿も焼かれ、王室の記録や年代記の多くが失われた。いまアユタヤの遺跡に頭の無い仏像が並んでいるのは、このときの破壊と、その後の盗掘の跡になる。

建国から417年。王家は何度も入れ替わったが、都は同じ島にあり続けた。陥落のあと、タークシンがトンブリーで国を建て直し、1782年にはチャオプラヤー川の対岸に新しい都が開かれる(バンコクへの遷都)。新しい都の王宮や寺院はアユタヤを手本に造られ、バンコクの長い正式名称の中にも「アユッタヤー」の語が入っている。島の都は焼けたが、その名と形は下流の都に引き継がれた。