人物

ガマール・アブドゥル=ナセル

Gamal Abdel Nasser
AD1918年1月15日 – AD1970年9月28日(享年52)
エジプト重要度 4

概要

スエズ運河を国有化し、旧宗主国の出兵を退けた。アラブ世界に「自分たちで決める」という気分を作る。

関わったできごと(3)

バンドン会議AD1955年 · エジプト側スエズ危機AD1956年 · 国有化を宣言アスワン・ハイ・ダムAD1970年7月21日 · 進めた

本文

1918年1月15日、地中海に面したアレクサンドリアに生まれた。父は上エジプトの村の出身の郵便局員で、転勤のたびに一家は各地を移った。エジプトは形の上では独立した王国だったが、実際にはイギリス軍が駐留し、スエズ運河を押さえ、国王と大地主の政治にも口を出していた。少年ナセルは高校生の頃から反英のデモに加わり、17歳のとき、警官隊との衝突で額に傷を負っている。

ガマール・アブドゥル=ナセル(1969年)
ガマール・アブドゥル=ナセル(1969年)Wikimedia Commons Not credited · Public domain

1937年、陸軍士官学校に入った。それまで上流の家の子弟しか入れなかった士官学校が、中流の若者にも門を開いた最初の頃の世代である。ここで、のちに革命をともにする仲間たちと出会った。

転機になったのは、1948年の第一次中東戦争だった(イスラエルの建国)。イスラエルの建国に反対して、エジプトを含むアラブ諸国が攻め込んだが、敗れた。ナセルは前線で包囲され、何か月も持ちこたえた。そこで彼が確信したのは、本当の敵は前線の向こうではなく、粗悪な武器を軍に押しつけ、腐敗しきった自国の王政の側にいる、ということだった。

13歳頃のナセル(1931年撮影)。
13歳頃のナセル(1931年撮影)。Wikimedia Commons Not credited · Public domain

帰国後、ナセルは軍の中に秘密の組織「自由将校団」を作った。1952年7月23日、彼らは無血のクーデターで政権を握り、国王ファールークを退位させて国外へ送り出した。表向きの指導者には人望のある年長のナギーブ将軍を立てたが、実権は30代のナセルにあった。地主の土地の上限を定めて農民に分ける改革を進め、1953年には王政を廃止して共和政にした。やがてナギーブを退け、1956年に大統領になった。

1954年、アレクサンドリアで演説している最中に、ムスリム同胞団の一員から銃撃を受けた。弾は外れた。ナセルは演説をやめず、たとえナセルが死んでも、あなたがた一人一人がナセルなのだ、と叫び続けた。この場面はラジオで国じゅうに流れ、彼の人気を決定づけた。その後、同胞団は厳しく弾圧された(ムスリム同胞団の結成)。

ナセルの大きな目標は、ナイル川をせき止める巨大なダムをアスワンに造ることだった(アスワン・ハイ・ダム)。洪水を抑え、耕地を広げ、電力を生む、近代化の象徴である。アメリカとイギリス、世界銀行が資金を出すことになっていた。だがナセルは、1955年のバンドン会議でアジア・アフリカの指導者たちと並び、どちらの陣営にも属さない立場を取った。さらに、西側が武器を売らないのを見て、ソ連側のチェコスロヴァキアから武器を買った。1956年7月、アメリカとイギリスはダムへの資金提供を取り消した。

バンドン会議に関わる図版:Plenary session during the Bandung Conference
バンドン会議Wikimedia Commons Foreign Ministry of the Republic of Indonesia · Public domain

1週間後、ナセルはアレクサンドリアの広場での演説で、スエズ運河会社を国有化すると宣言した(スエズ運河の開通)。運河の通航料でダムを造る、というのである。運河会社はイギリスとフランスの資本が握っていた。10月末、イスラエルがシナイ半島に攻め込み、それを口実にイギリスとフランスが運河地帯に軍を降ろした(スエズ危機)。エジプト軍は戦場では敗れた。だが、アメリカのアイゼンハワー大統領が英仏に強く撤退を迫り、ソ連も介入をほのめかした。英仏とイスラエルは引き揚げ、イギリスの首相は辞任に追い込まれた。

軍事で負けて、政治で勝った。かつての宗主国を退けたナセルは、アラブ世界の英雄になった。カイロのラジオ放送「アラブの声」は、国境を越えて各国の民衆に直接語りかけ、アラブは一つになるべきだと訴えた。1958年にはシリアと合わさって「アラブ連合共和国」を作った。だがエジプト主導のやり方にシリアの側で不満が募り、1961年、シリアのクーデターで連合は3年余りで崩れた。1962年からはイエメンの内戦に大軍を送り、長く泥沼に足を取られた。

士官学校時代のナセル(中央)。左はアフメド・マザール(英語版)。
士官学校時代のナセル(中央)。左はアフメド・マザール(英語版)。Wikimedia Commons Not credited · Public domain

国内では、銀行や大企業を国有化し、教育を無料にし、ソ連の援助で造り始めたアスワン・ハイ・ダムは1970年に完成した。一方で、政党は一つに限られ、秘密警察が反対派を監視し、多くの政治犯が獄につながれた。

1967年5月、ナセルはシナイ半島に軍を進め、国連の監視部隊を退かせ、イスラエルの船の通り道となる海峡を封鎖した。6月5日、イスラエルは先制攻撃に出て、数時間でエジプトの空軍をほぼ壊滅させた(第三次中東戦争)。6日間の戦争で、エジプトはシナイ半島を失った。6月9日、ナセルはテレビで敗北の責任を取って辞任すると発表した。すると数百万の人々が街頭にあふれ、辞めないでくれと叫んだ。ナセルは翌日、辞任を撤回した。

ナセルと中国の周恩来(左)。
ナセルと中国の周恩来(左)。Wikimedia Commons 人民画报 · Public domain

その後も、スエズ運河をはさんでイスラエルとの撃ち合いが続いた。1970年9月、ヨルダンで王政とパレスチナの武装組織が衝突すると、ナセルはカイロにアラブ諸国の首脳を集めて停戦をまとめた。その会議を終えた直後の9月28日、心臓発作で亡くなった。52歳だった。葬儀には数百万の人々が集まり、棺を追って泣いた。

後を継いだサーダートは、ナセルの路線から離れ、やがてイスラエルと和平を結ぶことになる(キャンプ・デーヴィッド合意)。ナセルは、アラブの人々に、自分たちの運命は自分たちで決められるという誇りを与えた。同時に、軍が政治を握り、言論を抑える体制を残した。エジプトでは、その両方がいまも続いている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1918年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →