インド・パキスタン分離

概要
独立と同時に線が引かれ、1000万人以上が移動した。数十万から百万が死んだとされる。
場所
31.63°N 74.87°E · インド・パンジャブ州
本文
1947年8月14日、パキスタンが独立した。翌15日の午前0時、インドが独立した。インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーは、制憲議会での演説で、世界が眠る真夜中の時を告げる鐘とともに、インドは生命と自由に目覚める、と語った。だがその同じ時間、パンジャーブ地方とベンガル地方では、自分の村がどちらの国に属することになるのかも知らないまま、人々が恐怖の中で夜を過ごしていた。独立は、分割とともにやってきた。
イギリス領インドでは、多数派のヒンドゥー教徒と、全人口の4分の1ほどを占めるムスリムが、多くの地域で入り混じって暮らしていた。独立運動の中心だったインド国民会議は、宗教を問わない一つの国をめざした。一方、ムハンマド・アリー・ジンナーが率いた全インド・ムスリム連盟は、ムスリムが少数派として多数派の支配に組み込まれることを恐れ、1940年、ムスリムの多い地域を独立させるよう求める決議を採択した。これが、パキスタンという国の要求の始まりになる。

第二次世界大戦の後、疲弊したイギリスは、インドを手放すことを決めた。だが国民会議とムスリム連盟は、統一の形をめぐって折り合えなかった。1946年8月、ムスリム連盟が呼びかけた「直接行動の日」に、カルカッタでヒンドゥーとムスリムの衝突が起き、数日で数千人が死んだ。暴力は東ベンガルやビハールへと広がった。ガンディーは分割に最後まで反対したが、国民会議の指導者たちも、内戦を避けるためには分割を受け入れるほかないと考えるようになっていった。
1947年3月、最後のインド総督としてマウントバッテン卿が着任した。イギリス政府は1948年6月までに撤退すると表明していたが、マウントバッテンは6月に分割の計画を発表し、独立の日を1947年8月15日へと大幅に早めた。準備の時間は2か月余りしかなかった。

国境線を引く仕事を任されたのは、イギリスの法律家シリル・ラドクリフだった。それまでインドに来たことがなく、どちらにも肩入れしないという理由で選ばれた。7月にインドへ着いたラドクリフに与えられた時間は約5週間。パンジャーブとベンガルにそれぞれ設けられた境界委員会は、国民会議側とムスリム連盟側の委員の意見が割れ、最終的な判断はラドクリフ一人に委ねられた。古い地図と国勢調査の数字をもとに、暑さの中で線を引いたその経緯は、ラドクリフ・ラインに詳しい。
線は、独立の2日後の8月17日まで公表されなかった。独立の祝賀を混乱させないためだったとされる。パンジャーブでは、ムスリムの多い西半分がパキスタンに、ヒンドゥー教徒とシク教徒の多い東半分がインドに入った。ベンガルも東西に割かれ、東ベンガルはパキスタンの一部になった。パキスタンは、インドを挟んで1600キロ以上離れた二つの地域からなる国として出発した。

その後に起きたのは、史上最大級の人口の移動と、凄まじい暴力だった。インドに残ることになったムスリムは西へ、パキスタンに入ったヒンドゥー教徒とシク教徒は東へ、家と土地を捨てて逃げた。移動した人は1000万人を超え、1500万人に近いとする推計もある。逃げる人々の列は襲われ、村は焼かれ、女性たちは誘拐され、暴行を受けた。誘拐された女性は数万人にのぼったとされる。乗客がほとんど殺された列車が、死者だけを乗せて駅に着くことも繰り返された。
最も激しかったのはパンジャーブだった。シク教の聖地である黄金寺院のあるアムリトサルと、ムスリムの多いラホールは、わずか50キロほどしか離れていないが、線によって別々の国に分けられた。死者の数は、今もはっきりしない。数十万から100万とする推計が多いが、200万とする見方もある。

暴力を止めようとした人もいた。ガンディーは、独立の日を祝わず、宗教暴動の続くカルカッタにとどまって断食し、暴力をやめるよう人々に訴えた。マウントバッテンは、パンジャーブに置いた5万の兵でもできなかったことを、ガンディーは一人でやってのけた、と述べたという。そのガンディーは、1948年1月、ムスリムに譲歩しすぎるとみなしたヒンドゥー至上主義者に撃たれて死んだ。ガンディーの暗殺である。
分割は、多くの問題を後に残した。藩王国の一つカシミールは、ムスリムが多数派なのにヒンドゥー教徒の藩王が治めており、1947年10月、インドへの帰属をめぐって最初の戦争が起きた。カシミール紛争の始まりは今も続いている。川の水の分け方をめぐる争いは、1960年のインダス川水利条約でようやく取り決められた。言葉も文化も違う東パキスタンは、1971年にバングラデシュの独立を果たし、ここでも大きな犠牲が出た。

ラドクリフは、仕事の報酬を受け取らず、関係する書類を焼いて帰国したと伝えられる。境界線を引いた男は、二度とインドを訪れなかった。分割を生き延びた人々の多くは、長いあいだそのときの経験を語らなかった。近年、インドでもパキスタンでも、生存者の証言を集めて残す取り組みが進められている。