概要
19世紀、ロシアは草原を南へ進み、中央アジアのオアシスの国々に迫った。1865年、将軍チェルニャーエフは、命令を待たずに中央アジア最大の商業の町タシケントを攻め落とす。二年後、ここにトルキスタン総督府が置かれ、ブハラとヒヴァは保護国になり、コーカンドは滅ぼされた。ロシアは綿花の畑を広げ、アメリカの南北戦争で途絶えた綿を補った。南のインドを持つイギリスは、ロシアがアフガニスタンを越えて来ることを恐れ、両国の探り合いは「グレート・ゲーム」と呼ばれた。
場所
41.30°N 69.24°E · ウズベキスタン
本文
19世紀の前半、ロシアはカザフの草原に砦を連ねて南へ進んだ。その先には、ブハラ、ヒヴァ、コーカンドという三つのイスラームの国があった。オアシスの町と灌漑の畑を持ち、シルクロードの時代から続く隊商の交易で栄えた国々である。
タシケントは、コーカンドの国に属する、中央アジアで最も大きな商業の町だった。1865年、ロシアの将軍ミハイル・チェルニャーエフは、首都からの命令を待たずに、わずか二千ほどの兵でこの町を攻め、落とした。町の周りは長い城壁に囲まれていたが、守りの兵はまとまりを欠いていた。政府は命令違反に困惑したが、町を返すことはしなかった。
1867年、タシケントにトルキスタン総督府が置かれた。ロシアは続いて、1868年にブハラを、1873年にヒヴァを保護国にし、1876年にはコーカンドを滅ぼして併合する。旧市街の隣に、碁盤の目の道と並木を持つロシア人の新市街が作られた。
ロシアがこの地に求めたものの一つは、綿花だった。アメリカの南北戦争で南部の綿が途絶えると、ロシアの紡績の工場は原料に困った。中央アジアの畑は綿に替えられ、ソ連の時代にはさらに広げられて、やがてアラル海の縮小を招く。南のインドを持つイギリスは、ロシアの南下を強く警戒した。アフガニスタンやパミールの山々で、両国の探検家や将校が互いを探り合った争いは、「グレート・ゲーム」と呼ばれる。それが終わるのは英露協商である。