ンジンガ女王
概要
40年にわたってポルトガルの奴隷貿易に抵抗した。外交と軍事を使い分け、オランダとも同盟を結んだ。
関わったできごと(1)
ンジンガのポルトガル抵抗1624年 · 当人本文
1583年頃、アフリカ大陸の南西部、いまのアンゴラの内陸にあったンドンゴ王国の王の娘として生まれた。ンドンゴの王は「ンゴラ」と呼ばれ、ポルトガル人がこの土地をアンゴラと呼ぶようになったのはこの称号からである。生まれたとき臍の緒が首に巻きついていたため、「ねじる」「巻きつく」を意味する名が付けられたと伝えられる。王の娘として、父のそばで政治や戦の話を聞いて育ち、武器の扱いも学んだという。
その頃、ンドンゴの西の海岸には、ポルトガル人が拠点を築いていた。1575年に建てられた港町ルアンダは、大西洋の向こうのブラジルへ奴隷を送り出す最大の積み出し港になっていく(ルアンダの建設と奴隷の積出、大西洋奴隷貿易)。ポルトガル人は、人を狩って売る傭兵集団インバンガラを引き入れて内陸へ攻め込み、ンドンゴの村々を襲って人々を連れ去った。

1617年、兄のンゴラ・ンバンディが王になった。戦況は悪く、兄は和平を求めて、妹のンジンガを使節としてルアンダに送った。1622年のことである。このとき、ポルトガルの総督は自分だけ椅子に座り、ンジンガには床の敷物しか用意しなかった。ンジンガは従者の一人を四つん這いにさせ、その背に腰かけて、総督と同じ高さで交渉した、という逸話が知られている。この話を伝えるのは後の宣教師や年代記作者の記録で、脚色の可能性はある。ただ、彼女が対等な国の代表として振る舞い、ンドンゴは貢ぎ物を納める属国ではないと主張して和平をまとめたことは確かとされる。滞在中に洗礼を受け、総督を名付け親として、ドナ・アナ・デ・ソウザという名を得た。
だが和平は守られなかった。1624年、兄が亡くなる。毒を盛られたとも、自ら命を絶ったともいわれ、ンジンガが関わったという噂も当時からあった。ンジンガは王位に就き、兄の子でライバルになりうる甥を殺させたとも伝えられる。女性の王を認めない有力者たちもいた。ポルトガルはこれにつけこみ、別の王族を傀儡の王に立て、ンジンガを攻めた。
ンジンガは国を追われて東へ逃れた。そこで彼女が取った手は、ポルトガル人が使ったのと同じものだった。人狩りの傭兵集団インバンガラと手を組み、彼らの戦の儀礼や掟を自らも受け入れて、その指導者になった。1631年頃には東の隣国マタンバを征服し、ここを新しい拠点とした。ポルトガルの支配から逃げてきた奴隷や、主人のもとを去った兵士たちを受け入れ、自分の兵にしていった。
1641年、ヨーロッパでスペインと戦っていたオランダが、ポルトガル領のルアンダを奪った。ンジンガはすぐにオランダと同盟を結んだ。ンドンゴの旧領の回復を目指して、各地でポルトガル軍と戦い、1647年には大きな勝利も挙げている。しかし1648年、ブラジルから来たポルトガルの艦隊がルアンダを取り返し、オランダ人は去った。この間に、ンジンガの妹の一人はポルトガルの捕虜になり、もう一人の妹は殺されたとされる。
一方で、ンジンガ自身も奴隷の取引と無縁ではなかった。戦争に勝つには銃と火薬が要り、それを買うために、戦で捕らえた人々をオランダ人やポルトガル人に売った。奴隷貿易と戦った女王は、同時にその仕組みの中で国を保っていた。抵抗の側にいた人が、同じ制度の中にもいたことになる。
年老いたンジンガは、1656年、ポルトガルと和平を結んだ。捕らえられていた妹は、多くの奴隷と引き換えに返された。晩年はふたたびキリスト教を受け入れ、イタリア人のカプチン会修道士を宮廷に迎えて教会を建てさせた。修道士カヴァッツィの記録には、彼女が男の装いをし、男の側近たちに女の装いをさせていたことなど、当時のヨーロッパ人を驚かせた姿が書き残されている。
1663年12月17日、ンジンガはマタンバで亡くなった。80歳ほどだった。40年近く王位にあり、晩年まで自ら兵を率いたとされる。後は妹が継いだ。マタンバはその後も独立を保ったが、王位をめぐる争いが続き、ポルトガルとの関係のなかで次第に力を失っていった。
20世紀、ポルトガルからの独立を目指したアンゴラの人々は、ンジンガを抵抗の象徴として掲げた(ポルトガル領の独立)。首都ルアンダには彼女の像が立っている。ンジンガについて伝える記録のほとんどは、ポルトガル人や宣教師が書いたもので、彼女を残虐な異教の女王として描く部分も、敬虔な改宗者として描く部分もある。その記録の向こうに、どんな手を使っても国と自分の権力を守ろうとした、したたかな政治家の姿が見える(ンジンガのポルトガル抵抗)。