シベリア鉄道の開通
概要
モスクワからウラジオストクまで9289キロ(1904年は満洲の東清鉄道を通り、ロシア領だけの全線は1916年)。1891年、皇太子ニコライがウラジオストクで鍬入れした(大津事件の直後)。囚人と農民と中国人の労働。永久凍土、バイカル湖(初めは船で渡し、1904年に環状線)。日露戦争に間に合わせるために突貫した。ロシアが東を「領土」として持てるようになった。ヨーロッパとアジアを7日で結ぶ、いまも世界最長の鉄道。
場所
43.12°N 131.88°E · ロシア
本文
19世紀の終わり、ロシアはウラル山脈から太平洋までの広大なシベリアを領土としていたが、そこへ行く道は貧しかった。ヨーロッパ・ロシアから極東まで、馬車と川船を乗り継いで数か月かかった。1860年の北京条約で沿海州を得て、太平洋岸にウラジオストク(「東方を支配せよ」の意)を築いたものの、兵も物資もすぐには届かない。清と、明治維新を経て力をつけた日本に対して、極東はあまりに無防備だった。1890年、作家チェーホフは流刑地サハリンを訪ねるため、モスクワから馬車と川船でシベリアを横断したが、島に着くまでに3か月近くかかった。1886年、皇帝アレクサンドル3世はイルクーツク総督の報告書の余白に、この地の必要に何も応えてこなかったことを恥じる、と書き込んだと伝えられる。
1891年、着工が決まった。5月31日(ロシア暦19日)、ウラジオストクで起工式が開かれ、皇太子ニコライ、のちのニコライ2世が鍬を入れて最初の土を手押し車で運んだ。皇太子は世界周遊の途中で、その2週間ほど前、日本の大津で警備の巡査に斬りつけられたばかりだった(大津事件)。

工事は東西から、いくつもの区間に分けて同時に進められた。指揮をとったのは大蔵大臣のセルゲイ・ヴィッテで、鉄道をロシアの産業と極東政策の柱と考えていた。働き手は、ロシアの農民や兵士のほか、刑期の短縮と引き換えに送られた囚人や流刑者、そして東の区間では中国や朝鮮から来た数万人の労働者だった。多い年には9万人近くが働いたとされる。道具の多くはシャベルとつるはし、馬車で、夏に溶けて地面がぬかるむ永久凍土、果てしない湿地、冬の零下40度を超える寒さと戦った。経費を抑えるため、線路は細く、枕木は少なく、橋の多くは木造で始められた。
距離を縮めるため、ロシアは清の領土を横切る近道を選んだ。1896年、清との密約で満洲を貫く東清鉄道の敷設権を得て、ハルビンを経てウラジオストクへ線路を延ばした。1898年には遼東半島の旅順と大連を租借し、ハルビンから南へ支線を引いた。満洲を事実上ロシアの勢力圏にするこの動きが、朝鮮半島に関心を持つ日本との対立を深め、日英同盟を経て、日露戦争の原因の一つとなった。

最大の難所はバイカル湖だった。南岸は湖に断崖が落ち込み、トンネルと橋を連ねなければ線路が通らない。その区間ができるまで、イギリスで造られて部品のまま運ばれ、湖畔で組み立てられた砕氷連絡船「バイカル」が、列車を車両ごと積んで対岸へ渡した。冬に湖が凍ると、氷の上に仮の線路が敷かれた。
1904年2月、日露戦争が始まった。シベリア鉄道は単線で、一日に通せる列車は限られ、兵や弾薬を前線へ送るのにひと月以上かかった。開戦直後の冬には、機関車が氷を割るのを恐れて、馬が車両を引いて凍ったバイカル湖を渡ったという。環バイカル線は戦争の最中の1904年に開通し、輸送力の増強が急がれた。それでも、旅順攻囲戦と日本海海戦の敗北を経て、ロシアはポーツマス条約で講和に応じた。南満洲の鉄道は日本の手に渡った。

戦後、ロシアは清の領土を通らずに済む路線を求め、アムール川沿いの区間を造った。1900年のパリ万国博覧会では、国際寝台車会社がシベリア横断の旅を再現した展示を出し、窓の外を流れるシベリアの景色の絵を見ながら食堂車で食事ができる趣向が評判を呼んだ。ヨーロッパからアジアへ、船ではなく陸路で行ける時代が来ることを、鉄道は人々に印象づけた。1916年、ハバロフスクでアムール川の鉄橋が完成し、ロシア領内だけを通ってモスクワとウラジオストクを結ぶ全線がつながった。その長さは9289キロで、いまも一続きの鉄道として世界で最も長い。
鉄道はシベリアの姿を変えた。ヨーロッパ・ロシアの農民が土地を求めて東へ移り住み、20世紀の初めには数百万人がシベリアに入植した。オビ川の鉄橋の工事のために1893年に生まれた村は、ノヴォニコラエフスク、のちのノヴォシビルスクとなり、シベリア最大の都市に育った。西シベリアのバターは鉄道でバルト海の港へ運ばれ、ヨーロッパへ輸出された。

鉄道は戦争と革命の舞台にもなった。ロシア革命の後の内戦では、捕虜から編成されたチェコスロヴァキア軍団が線路沿いに反乱を起こして沿線の都市を押さえ、日本やアメリカはこれを口実に軍を送った(シベリア出兵)。1941年の冬には、極東から運ばれたシベリアの師団がモスクワの防衛に加わった。いまもモスクワからウラジオストクまでの旅は7日ほどかかり、8つの時間帯をまたいでいく。