ワイタンギ条約

概要
英語版とマオリ語版で意味が食い違ったまま結ばれた。その解釈は現在も争われている。
場所
-35.27°N 174.08°E · ニュージーランド
関わった人(2)
テ・ラウパラハAD1768年頃–AD1849年11月27日 · 署名した首長の一人ホネ・ヘケAD1807年頃–AD1850年8月6日 · 最初に署名したマオリの首長本文
19世紀の初め、ニュージーランドには国というまとまりがなかった。マオリは数十の部族(イウィ)に分かれ、それぞれの首長が自分の土地と人々を治めていた。ヨーロッパから来た捕鯨船員や商人が住みつき、銃を売った。銃を手に入れた部族が他の部族を攻める「マスケット戦争」が1810年代から30年代まで続き、多くの死者が出た。テ・ラウパラハは、この時代に勢力を広げた首長の一人である。
イギリス政府は、当初この島を植民地にすることに乗り気ではなかった。だが、無法な入植者の問題に加え、1839年には民間のニュージーランド会社が移民船を送り出し、マオリから大量の土地を買い取ろうとしていた。フランスも関心を見せていた。イギリスは、領有を確かなものにするために、海軍大佐のウィリアム・ホブソンを派遣した。

1840年2月、ホブソンは北島の北部、アイランズ湾のワイタンギで首長たちを集めた。条約の英語の草案は急いで作られ、宣教師のヘンリー・ウィリアムズとその息子が一晩でマオリ語に訳した。2月5日に首長たちが議論し、賛否が激しく分かれた。翌6日、40人あまりの首長が署名した。ホネ・ヘケは最初に署名した首長として知られる。
条約は3つの条からなる。英語版の第1条では、首長たちはイギリス女王に「主権」を完全に譲るとされている。マオリ語版では、この語に「カワナタンガ」が当てられた。英語の「ガバナー(総督)」から作った造語で、統治の権限ほどの意味になる。第2条では、マオリは土地や森、漁場などを保持すると約束されたが、マオリ語版では「ティノ・ランガティラタンガ」、つまり首長としての完全な権威を保つと書かれた。同じ条で、土地を売るときは女王の政府だけに売るとも定められた。第3条は、マオリにイギリス臣民としての権利を与えるとした。

主権を譲ったのか、統治を委ねながら自分たちの権威は保ったのか。マオリ語版を読んで署名した首長の多くは、後者だと理解していたと考えられている。訳した宣教師が意味の違いをどこまで分かっていて、どこまで意図していたかは分かっていない。
写しは各地に回され、その年の秋までに500人あまりの首長が署名した。女性の首長も十数人含まれる。そのほとんどはマオリ語版に署名し、英語版に署名したのは数十人にとどまる。一方で、署名を拒んだ有力な首長もいた。ホブソンは5月、署名の集まりを待たずに、ニュージーランド全土の主権を宣言した。
約束は守られなかった。入植者が増えるにつれ、土地の買い上げは強引になった。ホネ・ヘケは、1844年から翌年にかけて、イギリスの旗竿を4度切り倒した。これが北部での戦いに発展し、1860年代には北島の各地でニュージーランド戦争が戦われた。政府は戦った部族の土地を没収し、法律で共同の土地を個人の所有に分けて、買いやすくした。1877年には、裁判官が、条約は法的に「単なる無効なもの」だと述べている。マオリの土地は、19世紀の終わりまでに北島の大部分が失われた。

流れが変わったのは20世紀の後半である。マオリの抗議運動が高まり、1975年にワイタンギ審判所が置かれ、条約に反する政府の行いを申し立てられるようになった。1985年からは、1840年までさかのぼって審理できるようになった。審判所の勧告を受けて、政府は各部族と交渉し、謝罪と土地や資金の返還で和解を進めている。条約は国の成り立ちを示す文書と見なされ、2月6日は「ワイタンギ・デー」として祝日になった。
それでも、二つの版のどちらに立つかで、いまも意見は分かれる。主権を譲っていないとするマオリの主張は続き、政府の政策や法案をめぐって、条約の原則の解釈が政治の争点になることがある。1840年の一晩の翻訳が、180年あまり後の国の形を問い続けている。