カール5世の退位
概要
スペイン、ネーデルラント、ナポリ、新大陸を息子フェリペに、帝位を弟フェルディナントに分けて、皇帝は修道院に引きこもった。「日の沈まぬ帝国」は、その日から二つになった。息子の側が、日の沈まない側だった。
場所
50.85°N 4.35°E · ベルギー
関わった人(2)
カール5世AD1500年2月24日–AD1558年9月21日 · 皇帝フェリペ2世AD1527年5月21日–AD1598年9月13日 · 息子本文
1555年10月25日、ブリュッセルの宮殿の大広間に、ネーデルラント17州の代表と金羊毛騎士団の騎士たちが集まった。現れた皇帝カール5世は、まだ55歳だったが、痛風で足が利かず、杖をつき、一人の若者の肩にもたれて歩いた。22歳のオラニエ公ウィレム。のちに、この日カールが国を譲る息子に背いて、オランダの独立戦争を率いることになる男である。
カールは、歴史上でもまれなほど多くの国を相続した君主だった。1500年にフランドルのヘントで生まれ、父方の祖父母からはハプスブルク家のオーストリアの領地とブルゴーニュ公国を、母方の祖父母からはスペインの王冠を受け継いだ。スペインにはナポリやシチリアなど南イタリアの領土と、コロンブス以来の新大陸の植民地が付いていた。1519年には神聖ローマ皇帝に選ばれる。その治世のうちにエルナン・コルテスがアステカを、フランシスコ・ピサロがインカを征服し、領土のどこかで常に太陽が昇っている「日の沈まぬ帝国」と呼ばれた。
だが、広すぎる帝国は、君主を休ませなかった。フランス王とはイタリアをめぐって何度も戦い、東からはオスマン帝国がウィーンにまで迫り、地中海ではその海軍と海賊が沿岸を荒らした。そしてドイツでは、マルティン・ルターに始まる宗教改革が広がった。1521年、ヴォルムスの帝国議会でルターと対面したカールは、カトリックの信仰を守ることを生涯の務めと考え、教会を一つに戻そうとし続けた。だが1552年にはプロテスタントの諸侯に背かれて、インスブルックから逃げ出す屈辱を味わい、その年の冬のフランスとのメス攻囲にも失敗した。1555年9月には、領邦ごとに君主が宗派を決めることを認めるアウクスブルクの和議が結ばれた。カールはこの和議を自分の名で結ぶことを嫌い、弟のフェルディナントに任せた。

退位の式典で、カールはフランス語で演説した。若くして統治を始めて以来、ドイツへ、スペインへ、イタリアへ、フランドルへと、どれほど多くの旅と戦いを重ねてきたかを一つ一つ数え上げ、もはや体がその務めに耐えられないと語った。自分は力の限りを尽くしたが、多くの誤りを犯したかもしれない、それを許してほしい、と述べると、皇帝は涙を流し、広間の多くの人も泣いたと伝えられる。
カールは帝国を二つに分けた。この日、ネーデルラントを息子フェリペに譲り、翌1556年1月にはスペインとその領土、イタリアの領土、新大陸を譲った。息子はフェリペ2世としてスペイン王になる。一方、神聖ローマ皇帝の位とオーストリアの領地は、すでにドイツの統治を任せていた弟のフェルディナントに渡した。カールは息子に帝位も継がせたかったが、ドイツの諸侯と弟の反対で果たせなかったのである。帝位の譲渡が選帝侯に正式に認められたのは1558年だった。こうしてハプスブルク家は、スペインの家とオーストリアの家に分かれた。新大陸と銀を持つスペインの側こそ、日の沈まない側だった。

1556年秋、カールは船でスペインに渡り、翌年の初め、エストレマドゥーラの山あいにあるユステの修道院の隣に建てた館に移った。寝室の窓からは、隣の礼拝堂の祭壇が見え、寝たままミサにあずかることができた。カールは機械時計を好み、時計職人とともに時計をいじって過ごした。いくつもの時計を同じ時刻に合わせることさえできないのに、人びとの信仰を一つにしようとした自分は愚かだった、と語ったという話が残るが、後世の作り話とする見方も強い。医師の制止も聞かず、好物の鰻や塩漬けの肉、ビールを口にし続けたとも伝えられる。死ぬ前に自分の葬儀のミサを挙げさせ、棺の前でそれを見守ったという話も、確かな記録ではない。
1558年9月21日、カールはマラリアとみられる熱病で亡くなった。58歳だった。手には、19年前に亡くなった妻イサベルが臨終のときに握っていた十字架を握っていたという。息子フェリペはのちにマドリードの近くに巨大な修道院と宮殿エル・エスコリアルを建て、1574年、父の遺体をそこに移した。スペインのハプスブルク家は1700年に途絶え、オーストリアの家は第一次世界大戦の終わる1918年まで続いた。