カラクムルとティカルの戦争
概要
マヤの二つの超大国。「蛇の王国」(当時の都はジバンチェで、のちカラクムルへ移る)が562年にティカルを破り、130年、ティカルは碑を建てなかった。695年、ティカルの王ハサウ・チャン・カウィールが仕返しした。同盟と結婚と戦争。二つとも9世紀に捨てられた。
場所
18.11°N -89.81°E · メキシコ
本文
マヤの古典期(マヤ古典期)、およそ250年から900年のあいだ、いまのグアテマラ北部からメキシコ南東部、ベリーズにかけての低地の密林には、数十の王国が並び立っていた。それぞれの都に神聖な王がいて、神殿と宮殿を築き、石碑に自分の事績を刻んだ。その中で、ほかの国々を従えて頭一つ抜け出した二つの大国があった。グアテマラのペテン地方のティカルと、蛇の頭を紋章とする「カーヌル(蛇)」の王国である。
ティカルの古い呼び名はムトゥル。4世紀には、メキシコ中央の大都市テオティワカン(テオティワカンの隆盛)と深い関わりを持った。378年、テオティワカンから来たシヤフ・カックという人物がティカルに到着し、その日に土地の王が死んで、新しい王統が立ったと碑文は記す。テオティワカン風の武器と装いを身につけたティカルの王たちは、5世紀にかけて周りの国々に影響を広げた。
蛇の王国は、6世紀に入ると、ティカルを取り囲むように同盟の網を張り巡らせた。ベリーズのカラコル、ナランホ、さらに南の国々である。蛇の王たちは、もともといまのメキシコ・キンタナロー州のジバンチェのあたりを本拠にしていたとみられ、7世紀の前半に、その都を北のカラクムルに移したと考えられている。
562年、ティカルは大敗を喫した。カラコルの「祭壇21」には、この年、ティカルの王ワク・チャン・カウィールが敗れたことが、「星の戦争」と呼ばれる文字で刻まれている。金星の動きに合わせて行われた大きな戦争を表す文字とされる。かつてはカラコルがティカルを破ったと読まれていたが、その後の研究で、戦いの主役は蛇の王国で、カラコルはその同盟者だったという見方が強くなった。ティカルの王は捕えられ、生贄にされたとみられている。

この敗北のあと、ティカルでは130年近く、日付を刻んだ石碑がほとんど建てられなくなった。研究者が「中断期」と呼ぶ時代である。その間に蛇の王国は最盛期を迎えた。636年から686年まで50年にわたって在位したユクノーム・チェーン2世、碑文で「大いなる者」と呼ばれた王のもとで、カラクムルは低地の多くの国の王の即位を見届け、属国として従えた。ティカルの王家から分かれた王子が建てたドス・ピラスの王バラフ・チャン・カウィールも、蛇の王国の側に付いて、本家のティカルと戦った。同じ王家の血を引く者どうしが、二つの大国の代理として争ったのである。
ティカルの巻き返しを果たしたのは、682年に即位したハサウ・チャン・カウィール1世だった。695年8月、ハサウはカラクムルの王ユクノーム・イチャーク・カックの軍を破った。ティカルの神殿の木の楣に刻まれた碑文は、敵の王の火打ち石と盾が打ち倒されたと勝利を記し、捕えた敵の像を担いで凱旋の行列をしたことを伝える。
ハサウの墓は、ティカルの大広場に立つ高さ47メートルの神殿1(大ジャガーの神殿)の下にある。734年ごろに死んだ王の墓からは、翡翠の首飾りや真珠とともに、細かな文字と絵を彫り込んだ骨が多数見つかった。その中には、捕虜とされた人々の名を刻んだものもある。カラクムルの勢いはこの戦いのあと衰え、8世紀のティカルは再び大きな神殿を次々に建て、最も栄えた時代を迎えた。
だがその繁栄も、長くは続かなかった。9世紀に入ると、マヤの低地の王国は次々に石碑を建てなくなり、人々は都を去っていった(マヤ低地の崩壊)。日照りの繰り返し、増えすぎた人口と森の破壊、絶え間ない戦争などが理由として挙げられるが、地域によって事情は異なり、決着はついていない。ティカルの最後の日付は869年、カラクムルの周辺では909年ごろの日付が最後になる。
二つの大国の争いが読み取れるようになったのは、マヤ文字の解読(マヤ文字の解読)が進んだ1980年代以後である。それ以前、マヤは戦争をしない平和な天文学者の文明だと考えられていた。都市ごとの紋章文字の発見と、碑文が王の歴史を語っているという読み方の確立によって、王たちの同盟と婚姻と戦争の網が見えてきた。2000年に出たサイモン・マーティンとニコライ・グルーベの『古代マヤ王歴代誌』は、二つの超大国が低地の国々を巻き込んで争った姿を描き出した。
カラクムルは1931年、密林でガムの原料を探していた調査の中で、植物学者サイラス・ランデルに見つけられた。1990年代からメキシコの調査が本格的に進み、6000を超える建物と、マヤで最も多い117の石碑が確かめられている。ティカルは1848年にグアテマラの調査隊が訪れ、1950年代から60年代にペンシルヴェニア大学が大規模に発掘した。いまはどちらも、密林の中の世界遺産である。