できごと

カラクムルとティカルの戦争

First Tikal–Calakmul War
AD562年
重要度 4
サバンナの狩猟採集民アマゾンの狩猟採集民平原のバイソン狩猟民砂漠の狩猟採集民北米東部の狩猟採集民高原の漁労・狩猟採集民ホープウェル文化北米太平洋岸の採集・狩猟・漁労民カリブの狩猟採集民Point Peninsulaマヤの諸都市Swift Creek CultureMarksville CultureVeracruz civilizationモチェFourche Maline CultureGoodall FocusCouture Complexモンテ・アルバンCaloosahatchee cultureureAD562年カラクムル
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD562年の版図を描いています(20勢力)。

概要

マヤの二つの超大国。「蛇の王国」(当時の都はジバンチェで、のちカラクムルへ移る)が562年にティカルを破り、130年、ティカルは碑を建てなかった。695年、ティカルの王ハサウ・チャン・カウィールが仕返しした。同盟と結婚と戦争。二つとも9世紀に捨てられた。

場所

カラクムル
18.11°N -89.81°E · メキシコ

本文

マヤの古典期(マヤ古典期)、およそ250年から900年のあいだ、いまのグアテマラ北部からメキシコ南東部、ベリーズにかけての低地の密林には、数十の王国が並び立っていた。それぞれの都に神聖な王がいて、神殿と宮殿を築き、石碑に自分の事績を刻んだ。その中で、ほかの国々を従えて頭一つ抜け出した二つの大国があった。グアテマラのペテン地方のティカルと、蛇の頭を紋章とする「カーヌル(蛇)」の王国である。

ティカルの古い呼び名はムトゥル。4世紀には、メキシコ中央の大都市テオティワカン(テオティワカンの隆盛)と深い関わりを持った。378年、テオティワカンから来たシヤフ・カックという人物がティカルに到着し、その日に土地の王が死んで、新しい王統が立ったと碑文は記す。テオティワカン風の武器と装いを身につけたティカルの王たちは、5世紀にかけて周りの国々に影響を広げた。

戦闘の場面を描いた土器(グアテマラ・ネバフ地方、マヤ)
戦闘の場面を描いた土器(グアテマラ・ネバフ地方、マヤ)Wikimedia Commons Daderot · CC0

蛇の王国は、6世紀に入ると、ティカルを取り囲むように同盟の網を張り巡らせた。ベリーズのカラコル、ナランホ、さらに南の国々である。蛇の王たちは、もともといまのメキシコ・キンタナロー州のジバンチェのあたりを本拠にしていたとみられ、7世紀の前半に、その都を北のカラクムルに移したと考えられている。

562年、ティカルは大敗を喫した。カラコルの「祭壇21」には、この年、ティカルの王ワク・チャン・カウィールが敗れたことが、「星の戦争」と呼ばれる文字で刻まれている。金星の動きに合わせて行われた大きな戦争を表す文字とされる。かつてはカラコルがティカルを破ったと読まれていたが、その後の研究で、戦いの主役は蛇の王国で、カラコルはその同盟者だったという見方が強くなった。ティカルの王は捕えられ、生贄にされたとみられている。

カラクムルの壁画。スカイ・ウィットネスの前の王トゥーン・カブ・ヒクスを描く
カラクムルの壁画。スカイ・ウィットネスの前の王トゥーン・カブ・ヒクスを描くWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

この敗北のあと、ティカルでは130年近く、日付を刻んだ石碑がほとんど建てられなくなった。研究者が「中断期」と呼ぶ時代である。その間に蛇の王国は最盛期を迎えた。636年から686年まで50年にわたって在位したユクノーム・チェーン2世、碑文で「大いなる者」と呼ばれた王のもとで、カラクムルは低地の多くの国の王の即位を見届け、属国として従えた。ティカルの王家から分かれた王子が建てたドス・ピラスの王バラフ・チャン・カウィールも、蛇の王国の側に付いて、本家のティカルと戦った。同じ王家の血を引く者どうしが、二つの大国の代理として争ったのである。

ティカルの巻き返しを果たしたのは、682年に即位したハサウ・チャン・カウィール1世だった。695年8月、ハサウはカラクムルの王ユクノーム・イチャーク・カックの軍を破った。ティカルの神殿の木の楣に刻まれた碑文は、敵の王の火打ち石と盾が打ち倒されたと勝利を記し、捕えた敵の像を担いで凱旋の行列をしたことを伝える。

ハサウの墓は、ティカルの大広場に立つ高さ47メートルの神殿1(大ジャガーの神殿)の下にある。734年ごろに死んだ王の墓からは、翡翠の首飾りや真珠とともに、細かな文字と絵を彫り込んだ骨が多数見つかった。その中には、捕虜とされた人々の名を刻んだものもある。カラクムルの勢いはこの戦いのあと衰え、8世紀のティカルは再び大きな神殿を次々に建て、最も栄えた時代を迎えた。

だがその繁栄も、長くは続かなかった。9世紀に入ると、マヤの低地の王国は次々に石碑を建てなくなり、人々は都を去っていった(マヤ低地の崩壊)。日照りの繰り返し、増えすぎた人口と森の破壊、絶え間ない戦争などが理由として挙げられるが、地域によって事情は異なり、決着はついていない。ティカルの最後の日付は869年、カラクムルの周辺では909年ごろの日付が最後になる。

二つの大国の争いが読み取れるようになったのは、マヤ文字の解読(マヤ文字の解読)が進んだ1980年代以後である。それ以前、マヤは戦争をしない平和な天文学者の文明だと考えられていた。都市ごとの紋章文字の発見と、碑文が王の歴史を語っているという読み方の確立によって、王たちの同盟と婚姻と戦争の網が見えてきた。2000年に出たサイモン・マーティンとニコライ・グルーベの『古代マヤ王歴代誌』は、二つの超大国が低地の国々を巻き込んで争った姿を描き出した。

カラクムルは1931年、密林でガムの原料を探していた調査の中で、植物学者サイラス・ランデルに見つけられた。1990年代からメキシコの調査が本格的に進み、6000を超える建物と、マヤで最も多い117の石碑が確かめられている。ティカルは1848年にグアテマラの調査隊が訪れ、1950年代から60年代にペンシルヴェニア大学が大規模に発掘した。いまはどちらも、密林の中の世界遺産である。

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