バンダ諸島の虐殺と香辛料の独占
概要
ナツメグの木が世界でここにしか無かった。オランダ東インド会社が独占のために島民1万5000人のほとんどを殺すか奴隷にし、空いた土地に農園を作った。
場所
-4.53°N 129.90°E · インドネシア・マルク州
本文
ナツメグの種と、その種を包む赤い網のような皮から作るメースは、17世紀の初めまで、インドネシア東部のバンダ諸島でしか採れなかった。バンダ諸島は十ほどの小さな火山島からなり、すべてを合わせても200平方キロに満たない。ヨーロッパでナツメグは薬や香料として珍重され、産地から遠く離れるほど値段が跳ね上がった。
島々では、長老や有力者たちの合議が村々を治めていた。人びとはナツメグとメースを売り、代わりに米や布を買って暮らしていた。ジャワ、マレー、中国、アラブの商人が季節風に乗って訪れ、何百年も前からこの交易は続いていた。一人の買い手に縛られず、より良い値をつける相手に売るのが、彼らにとって当たり前のことだった。16世紀の初めにはポルトガル人が来たが、島々を支配するには至らず、交易の相手の一つにとどまった。

1602年にオランダ東インド会社の設立によって作られたオランダ東インド会社は、香辛料の独占を目指した。バンダの有力者たちに、ナツメグとメースをオランダにだけ売るという契約を結ばせた。だが島の人びとにとって、それは自分たちの交易の慣行にない約束だった。契約に署名した有力者が、島全体を縛る権限を持っていたかどうかもはっきりしない。島民はほかの商人にも売り続け、イギリスの東インド会社も近くの小島に拠点を置いて買い付けた。
1609年、オランダの提督フェルフーフが兵を率いて主島ネイラに上陸し、要塞の建設を始めた。交渉の場に誘い出された提督と部下40人あまりは、島民に殺された。この時、オランダ側の若い商館員としてその場に居合わせたとされるのが、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンだった。その後もオランダとバンダの戦いと和解が繰り返され、イギリスはルン島に拠点を構えて抵抗した。

1619年に総督となったクーンは、オランダ東インド会社のバタヴィアでジャワに本拠を築くと、バンダの問題を力で解決しようとした。1621年、彼は2000人近い兵を率いて島々に来た。兵の中には、日本から雇われた侍の傭兵も含まれていた。オランダ軍は主島バンダ・ブサールに上陸し、抵抗する村を焼いた。陰謀を企てたという理由で捕らえられた40人あまりの有力者は、ネイラの城で、日本人の傭兵によって首を切られ、体を切り分けられた。その場面は、立ち会ったオランダ人の記録に残っている。同じ1621年、江戸幕府は、外国の商人が日本人を雇って国外へ連れ出すことと、武器を輸出することを禁じた。のちの鎖国の完成へとつながる動きの一つで、この禁令のあと、日本人の傭兵がオランダの戦いに加わることはほとんどなくなった。
島民の多くは山中に逃げ込み、そこで飢えと病に倒れた。追い詰められて崖から身を投げた人もいたと伝えられる。生き残った人びとの一部は、バタヴィアへ奴隷として送られた。一部は船で近くの島々へ逃れ、その子孫はいまもケイ諸島などでバンダの言葉を伝えている。戦いの前に1万数千人いたとされる島の住民のうち、島に残ったのは1000人に満たなかったとされる。

空になった島々は、70ほどの区画に分けられ、オランダ人の入植者に払い下げられた。区画の持ち主は会社が決めた値段でナツメグとメースを会社に売ることを義務づけられ、そのための労働力として、アジアの各地から奴隷が連れてこられた。生き残ったバンダの人びとも、そこで働かされた。島は丸ごと、一つの作物のための農園になった。
以後200年近く、ナツメグの値段はアムステルダムで決まった。会社は供給を絞るために、倉庫にたまった実を焼き捨てることもあった。ほかの島でナツメグの木が育たないよう、苗や種の持ち出しを厳しく禁じた。独占が崩れたのは、ナポレオン戦争の時代にイギリスがバンダ諸島を一時占領し、苗をセイロンやマレー半島、カリブ海の島々に運んで植えてからのことになる。カリブ海のグレナダは、いまもナツメグを国旗に描いている。

小さな島の運命は、遠い大陸の歴史とも絡み合った。イギリスが保持を主張していたルン島と、オランダが北アメリカに築いたニューアムステルダムは、1667年の講和条約で、それぞれ相手が押さえているものをそのまま認めることで決着した。ルン島はオランダのものとなり、イギリスが1664年に奪っていたニューアムステルダムはイギリスに残って、ニューヨークと名を変えた。二つの島を交換した、と言われることが多いが、正確には互いに占領した土地を認め合ったものである。
クーンはオランダで長く、会社の帝国を築いた英雄とされ、故郷の町には像が立てられた。だが同時代にも、会社の重役の中にその手段の残酷さを非難する者がいた。いまでは、クーンの像や名前を冠した通りをどう扱うかが、オランダで議論になっている。香辛料のための虐殺は、株式会社と独占と植民地支配が結びついたとき何が起こるかを示す、早い時期の例として記憶されている。