スーサの集団結婚

概要
王とマケドニアの将校80人が、一日でペルシアの貴族の娘と結婚した。二つの民を一つにする構想だったが、王の死後、将校の多くは妻を捨てた。
場所
32.19°N 48.25°E · イラン・フーゼスターン州
関わった人(1)
アレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · 主催本文
紀元前324年の春、アレクサンドロス3世はインドからの苦しい帰路を終え、ペルシアの古い都スーサに戻っていた。東方遠征の出発から10年(アレクサンドロスの東方遠征)。ペルシア帝国はすでに彼のものだったが、それをどう治めるかはまだ決まっていなかった。征服したマケドニア人は少数で、治めるべき土地と人は果てしなく広い。
王はすでに、征服した土地の作法を取り入れはじめていた。ペルシア風の衣を身につけ、ペルシア人の貴族を総督に任じた。王の前でひれ伏す跪拝の礼をマケドニア人にも求めようとして強く反発され、反対した宮廷の歴史家カリステネスは、のちに陰謀に連座したとして命を落とした。王とマケドニアの仲間たちの間には、すでに溝があった。

スーサで、王は大がかりな婚礼を開いた。自らは、ダレイオス3世の長女スタテイラと、さらに前の王アルタクセルクセス3世の娘パリュサティスを妻に迎えた。二つの王家の血を、自分の家に取り込んだことになる。王はすでに中央アジアの豪族の娘ロクサネと結婚していた。
親友のヘファイスティオンには、スタテイラの妹ドリュペティスが与えられた。王とヘファイスティオンの子どもが、いとこ同士になるように、とアッリアノスは書く。ほかにも、王の側近や将校80人ほどが、ペルシアやメディアの貴族の娘と結婚した。のちにエジプトの王となるプトレマイオス、シリアの王となるセレウコス、書記官のエウメネスもその中にいた。

この婚礼の様子を伝える主な史料は、500年ほど後のローマ時代にアッリアノスやプルタルコスが書いたものである。彼らは、王に従軍したプトレマイオスや宮廷の人びとの記録を下敷きにしている。人数や品々の細部には、伝えるうちに膨らんだところもあるかもしれない。
式はペルシアの作法で行われた。婿たちは並べられた椅子に座り、乾杯ののち、花嫁が入ってきて、それぞれ夫の隣に座る。夫は花嫁の手を取り、口づけをする。王が最初にそれをして、皆が続いた。宴は5日続いたと、同席した宮廷の侍従が書き残している。さらに、すでにアジアの女性と暮らしていた兵士1万人を名簿に載せ、それぞれに祝いの品を与えた。

王の狙いについては、昔から議論がある。マケドニア人とペルシア人を混ぜて、一つの支配層を作る。その子どもたちが、次の帝国を担う。20世紀の初めには、人類の融和という理想の表れだと説く学者もいたが、いまは支配のための現実的な策と見る見方が多い。同じころ、ペルシアの少年3万人がマケドニア式の訓練を終えて王の前に現れていた。
マケドニアの将兵の多くは、これを喜ばなかった。征服した相手の作法に従わされ、相手の娘を押しつけられたと感じた者もいた。数か月後、ティグリス川のほとりのオピスで、王が老兵を帰郷させると告げると、兵士たちは騒ぎ出し、王は自分を捨ててペルシア人を選ぶのかと詰め寄った。王は兵士たちと和解の宴を開き、両民族の協調を祈った。
その秋、ヘファイスティオンが病で死に(ヘファイスティオンの死)、翌年6月、王もバビロンで死んだ(アレクサンドロスの死)。32歳だった。スーサで結ばれた夫婦の多くは、その後まもなく別れた。王の後を争う将軍たちにとって、ペルシアの妻を持つ利点はもう無かった。
ヘファイスティオンの妻ドリュペティスは、結婚から1年足らずで夫を失った。プルタルコスによれば、姉スタテイラとともにロクサネに殺されたという。王家の血を引く女性たちは、後継争いの中で真っ先に狙われた。
例外として知られるのが、セレウコス1世である。彼はソグディアナの将スピタメネスの娘アパマを妻として離さず、彼女の産んだ息子が王位を継いだ。セレウコスは、各地に建てた町のいくつかに妻の名をつけた。アパメイアである。セレウコスの築いた国(セレウコス朝)は、ギリシア人と土地の人びとを抱え、250年近く続いた。
王の妃となったスタテイラは、王の死後まもなく、ロクサネの手で殺されたとプルタルコスは伝える。その時、ロクサネは王の子を身ごもっていた。